アンチヒーローを巡って

私たちは日常で一体どんなふうに感じ考えているのだろうか?
物語的なフレームワークを使ってみると案外シンプルに説明がつくのでは?また説明だけでなく実践でも使えて、その中でちょっとした違いも感じられるようになるのではないか?と考えている。
今回はアンチヒーローを取り上げて物語と現実世界での思考との間を行き来してみたいと思います。

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長めの小説を読ませる原動力の一つにアンチヒーロー的な登場人物の存在が挙げられる。小説なので基本的に筋に沿って読み進めていくしかないのだけれど、アンチヒーローのキャラクターが強ければ強いほど嫌悪感が強くなり、「とっととやっつけられちゃえ!」なんて感じたりもする。あまりにキャラがきつ過ぎて途中で読むのを止めちゃうなんてこともあるかもしれない。逆に、そいつが中々やっつけられず、長々とヒーローの側が困らされる状態が続くからこそ最後まで読むのを止められないという場合もある。止められない場合というのはきっと「こんなワルモノが無事で終わるわけがない」という確信(期待?)と相まって、「無事に終わってはいけない」というほのかな正義感のようなものも働いているのだろう。文学作品がややもすると教訓を垂れるために書かれているかのように感じられるのは、読んでいる中で、こういう善悪にまつわる判断(というか好み?)がその人の常識としてバックグラウンドで鳴っているからなのだろう。

文学作品は別に教訓を垂れるためのものではないんだけど、読むと自分自身の善悪についての感じ方が意識されるという効能はあるかもしれない。フィクションに出てくるアンチヒーローだと、どんなに嫌なヤツであっても付き合っていくしかない。その作品を最後まで読み通すなら少なくとも話が終わるまでは。このように我慢して悪いやつともしばし付き合うというのは空想世界の話でしかないとしてもいいことだと思う。付き合ってみると、往々にしてキャラのキツイ(より嫌な)ヤツ、話の最後の最後まで活躍する(ヒーローを苦しめる)ヤツというのは、最後は何らかの形で破滅したりして終わるけれども終わった後に何か魅力のようなものを余韻として残していったりもする。

昨今とみに流行はやらなくなっているように感じられる、自らの好みに合わない、それも善悪のところで合わない、認めがたい人間と辛抱強くしばらく付き合ってみるというキレイごと。日常生活ではそんな風にはいかないのだろうけれど、現実世界では本当にどうしようもないワルモノというのはそうそうお目にかかれるものではないというのも事実のはず。フィクションを通して得られるアンチヒーロー達との出会い、お付き合いするというのはそのへんの理想と現実との距離を多少なりとも縮めてくれるんじゃないだろうか。

主要メディアで出回る記事とそれを需要しているらしい大衆を眺めていて感じるのが、ワルモノの存在を察知すればいち早く撃滅したいという衝動。物語のように作者に全て任せて自滅していくのを待っているなんてできない。待つのではなく、できることなら自らの手で叩き潰したい。そういうことになると、話は非常に短い時間で終わってしまう。というか自らの差配で途端に終わらせてしまうことができる。
終わってしまえば次の話を求めてしまう。
現実の世にそんなワルモノばかりがゴロゴロ転がっているとは思えないんだけど(であるからこそ?)、ちょっとしたことを取り上げてはワルモノを仕立て上げ、そして潰すということが繰り返される。
いい加減話のネタが尽きてしまうんじゃないかということも心配だが、日々の暮らし方としてそういうやり方を続けていていいのだろうか?という心配の方が大きい。

私たちはなんとなく生きているようでいて、やっぱり先々のことは気になる。そういう漠然とした未来のことではあっても一応ある程度の射程をもって見ている。その射程というのは明日のことかもしれないし十年先、二十年先のことかもしれない。また、近い将来のことほどより具体的な絵として思い浮かぶのかもしれないが、どんなにぼんやりとしていようが射程に置いた先が暫定的ではあっても終点(話の終わり、一区切り)だ。その終点がいつも「ワルモノがやっつけられる」という終わり方だけというのは何とも貧困な感じがする。

現実の世界で悪いヤツをわざわざヒーローに仕立て上げるなんてバカバカしい。そんなヒマはない。けれども誰もかれもを一瞬で見切ってそれでお終いにするというやり方では見切っている方も自らの可能性を敢えて捨て去ってしまっているように見える。
人間どうしても同じようなことを繰り返していくものだけれど、同じことの繰り返しだからといって全く何も変化しないわけではない。
「悪は必ず滅びる」のだとしても、滅び方だって色々だ。滅び方が色々なら実際滅んだ後に残されるものも色々なはずだ。常にただ溜飲を下げてお終いというわけではないだろう。いなくなってしまった後に一抹の寂しさを感じることもある。物語ならそういう時にはもう一度読み返したくなるかもしれない。読み返すばかりでは飽き足らず、自分でまた違った終点を想定してお話を作り直してみる、なんてことも起こるかもしれない。ただの空想であるにせよ全くの自由ではなくて、下敷きになった話が一定の制限をかけてくれる。
こういう自由さと適当な制限との狭間を行ったり来たりするという面でも、物語的なフレームワークを思い浮かべて、その枠内で行ったり来たりを様々に繰り返すというのは一つの型として持っておくと、実生活を送る上で少しは落ち着いた気持ちでいられるようになるんじゃないだろうか。また、実際に使ってみると見えてくる何かがあるんじゃないだろうか。

現実世界で付き合いづらい人間をアンチなヒーローとして描くというのは難しい。私たちの多くは文豪ではないからね。そうそう悪役を魅力的には描けない。ただネガティヴに気になる存在というのは、その時点その場所での自らの常識からはみ出てしまっているという見方もできる。折角そうした違和感を感じさせてくれるのだから、じっくり気付いて・・・・、フィクションのアンチヒーローと付き合うかの如く、ある程度”読み”・・続けてみると案外世界はゆったりとしてくるかもしれない。

私たちの日常に結構いつでも付いて回る善悪の判断に関わることなど、より詳しく見てみる価値はあるけれど、とりあえずアンチ(自分の常識に照らして)な存在に出会ったら、巧くヒーローっぽく描くことができないものか?ちょっと時間をかけて思案してみてもいいんじゃないだろうか。

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