いかりばしょ

怒りは時にパワーになる。

けれどあんまりしょっちゅうは怒らない方がいい。

ここ一番って時のためにとっておけるのが理想的だ。

かく言う私は始終怒り続けている。バカだ。

朝の通勤ですれ違う人々のコース取りが悪いと言って怒り、就業時間というのに私用の電話でバカでっかい声で話したり素っ頓狂な笑い声を上げる同僚に怒る。

そんな自分をさておいて、他人が怒っていると「まあまあそんなことぐらいで怒りなさんな」と言いたくなる。勝手な野郎だ。

始終怒っていることで何か一つでもタメになることがあるか?と考えると、それは冒頭言った「ここ一番」ってのも実はないんじゃないか?と思えること。

始終怒っているので勿論始終抑えようとしているわけだ。「ここじゃない。ここじゃない。。。もっといかるべき場所がある。」

そうして溜めて溜めて溜め込んでおいて怒る場面がないわけじゃあない。

けれどもやってみるとそれほど効果がない。

そう。実は私。怒りのパワーってあんまり信じなくなっている。

怒りでなくても自分自身で意識してぐぅぅっとエネルギーを溜めた感じでそいつを原動力に使ったと思い、そして結果が吉と出たとして、果たして良かった結果って自分のお手柄なんだろうか?

動機付けというのは何かに取り組む、何かを成し遂げようとする時には必要なものなのかもしれない。けれどもその動機付けすら自分だけでやり切れると言い切れるか?

話がいかりということになると、そいつは世間的にはあまり望ましいものとはされていないので、きっといかるべき(しかるべき)理由なんてものが付随してくる。これこれこういう事情があり、これこれこういう問題を解消すべく私はいからねばならない。いかって当然。いかる権利がある。

このようにそもそものところからして怒りの場合は自分以外の何者かによって触発される。そこはさておいても、明らかに自分自身の感情であるところのもである怒り。これに対する正当性の主張がややもすると強くなりがちな気がする。自分のもんにそんなに「正しさがある!」なんて思い込んでて大丈夫か?と。

人間は感情の動物だし、怒りたければ怒るがいい。やたらめったら抑えて体をおかしくしてはいけない。

とはいえ何かを開放するからには同時に引き起こされるゆらぎやら逆流やらについても知っておいた方がいい。

それよりも何よりも、いかったところで大した効果は得られませんぜ。

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