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安定的な未来予測を支えているもの

それはお金。

金さえあれば衣食住に必要なものは手に入るだろう。

そう思えるだけで狩猟採集や物々交換に頼らざるを得ない生活での未来予測なんてお話になんないぐらいの安心感がある。

しかし、なんで?どのようにしてそれが可能となっているんだろう?

科学技術の成果は疑いようもない。

衣食住に必要な物を潤沢に製造し、日々刷新される卓越したサービスで製造した物を流通させることができるようになった。

人々は与えられた条件の中で、作れるものを作り、物を作る手段が手近になければ、労働力を提供し、潤沢に作られた物をより効率的効果的に行き渡らせるよう、サービスを開発し、提供する。物を作って売ることができなくても、働いて、その報酬としてお金が得られるなら、必要な物を購入できる。

お金の便利さは、一般庶民の衣食住を支える物品・サービス調達のための手段としてだけではなく、これら必要な物やサービスを作り出すためにこそ威力を発揮する。沢山集めれば、自ら計画する事業を遂行するために必要な資機材や人材(技術も含む)が調達できるし、事業するのに必要なら土地だって買える。

お金はつまり、様々な物品、有形無形の資産、労働力などなどの価値を表示するための統一単位(異なる貨幣間の換算には容易さ/困難さに差はあるが)として様々な物品・サービスの交換媒体として機能するとともに、貨幣価値に換算された価値の情報を携えるモノとして、それ自体が交換される。

肝心の物や労働力を含むサービスの価値というのは、経済学では需要と供給のバランスで決定され、需要と供給の情報はマーケットで把握されることになっている。つまり様々な物やサービスが取引されることで、何がどれぐらい必要とされているか?どれぐらい供給すればより有利に買ってもらえるか?などが把握され、不特定多数が参加する取引も、需要と供給が均衡する点を最適点とするかのごとく、価格がそこへと向かっていく。

当然全ての需要がマーケットで把握されるわけではないので、もしもデータとして需要と供給が均衡点に事実達していることが確認されたとしても、それが最も効率のよい供給量であると断定はできない。あくまでも「それほど無駄は出していないだろう」ぐらいの目安。マーケットにおける取引情報がかなり網羅的になっている現在、供給する側は、それらの情報を眺めながら、より高い利益が得られるよう生産量や在庫量を継続的に調整する。

ダンピングやレント・シーキングの問題を詳細に分析するまでもなく、取引上手な者というのは、需要と供給の均衡点だけではなく、様々なバランス関係(とある物品に関する知識や思入れであるとか、自他の懐具合や生産余力であるとか)に潜む差異・不均衡に敏感で、これらを巧みに利用する。「不均衡を利用する」というと道義的にマイナスなイメージが強くなるけど、Win+Winを実現可能な場合もあるので、必ずしも”ズル”をするというわけでもない。

人間というのは様々なものを交換してはいるが、さて、それは効率的に資源を利用しようとしているからなのだろうか?個人ベースに限ってみればこの言説は正しいだろう。物的資源のみならず、知識も、自らが働くことによって生み出されるであろう価値も、楽に生活を支えてくれるのに活用されるのが一番。無駄な努力はしたくないし、なけなしの財産だって本当なら散財なんてしたくないだろう。でも、経済学でいうところの効率性というのは、より数量的に厳密な話で、一人一人の主観的な楽だとか無駄だとかいう印象の問題ではない。無駄だ楽だというのなら事実どれだけのエネルギーが投入されて、それに見合うだけのエネルギーが得られたのか?明らかに次元の異なる効率性(単なる印象と計算)なんだけれども、敢えて同一の現実世界で確認しようとするなら、「ほれ。見てのとおり。私こうして生きているし、多分向こう○○年は生きているでしょ。」と現に言うことができるかどうか?のお話になる。ビジネス・起業の世界でも、こと検証ということになればそんなもんで、「ほれ。見てみ。ちゃんと事業継続できているし、向こう○○期は利益出し続けて存続しているでしょ。」って言えるかどうかが成功したビジネス・モデルの”証拠”になっている。

いずれの場合でも、キーは”見通し”

効率だの効果的だのいうけれど、それらは全部”見通し”が客観的合理的に実証されうるぐらい正しいと言いたいだけ。それは個人だろうが企業だろうがその他団体組織であろうが同じ。みんな自分の拠って立つ未来予測が正確だと言いたいのだ。正確な未来予測に基づいて現在を生きていると思いたいのだ。別に有限な資源を本当に効率的効果的に地球に住んでいる全員で無駄なく使えるように、なんて夢は見ていない。みんなの夢はなるべく心配の少ない未来。だから別に本人がそれでよければ、「ああ俺?もう何十年も生きるわけちゃうから」という見通しで生きてたとして、「見通しの立て方が(合理的客観的に見て)甘い」とか他人に言われたって別に「ああそうですか」ってだけのお話。逆にその他大勢の心配をするジェスチャーとして、科学的合理的実証的手法に基づいた未来予測を立てて「これがより正しい(から聞きたい奴は聞け。聞かない奴は自己責任。)」と言うこともできる。

価格が需要と供給の均衡点を目指すってお話のところでも、勘のいい人は気づいたと思うけど、マーケット(とある財やサービスの取引)って不特定多数が参加する。その人々が需要と供給の均衡点を目指しているように見えるってことは、それぞれの人がいろんな情報を加味しているということ。「あれ?こないだのあれはちょい安過ぎた??」とか「なんか売れ行き悪いなー」とか。値段や売れ行き、在庫などは勿論重要な指標になるけれど、質のいい情報を簡便迅速に得たければ、信用できる仲間を確保するのが一番。自らが目利き鼻利きになれればいいけど、目利き鼻利きを利用しようともするだろう。要するに、ここ一発!ってことでそういった信用無視で勝負賭ける場合もあるだろうし、そうした暴挙を防ぐような手立ても講じるだろうし、価格が決まる以前の情報をどうやりとりするか?を巡っても、様々な規則や規範を設定・更新している。道徳律から人間は逃れられないのです。かの有名なアダム・スミスが市場原理道徳のお話の両方で代表的著作を残しているとおり。

未来予測を縛るもの。それが逃れられない道徳律。21世紀の今は、科学技術の叩き出してきた成果のお陰もあって、合理的科学的手法、客観的事実・証拠に基づいた計画策定などがより正しいものとして支持されている(若しくは有効な代替策を主張することが極めて困難になっている)。この”正しさ”というのは客観的でもなければ究極でもない。したがって、論理的には今観察されているようにほぼ全員に受入れを強要できるような代物ではない。寧ろ、そのようになってしまっている事実から、非道徳的である。かといって、それ以外の手法(宗教や占い)の方が道徳的に正しいと言えるわけではない。誰も逃れられないものなのだから、道徳的正しさを主張するのは破滅的だ。

しかし、科学的合理的実証的手法信仰がもたらす負の影響を鑑みるに、何らかの対策は練られなければならない。必要悪と見るだけでは不十分。もっと積極的に必要不可欠のもの。より多くの人により安定的な未来予測を提供するためにも。未来予測の方法を変えなければならない。お金は必要。でもなるべくたくさん持ったり使ったりしない方がいい(保持する量、使う量は少なく済んだ方がいい)。不足分を見積もる方法、今ある分から余剰を絞り出す方法、不足を補うために交換・分配効率を上げる方法、そして、余剰を活かすべく効果的効率的に交換・分配する方法。これらは全て合理的科学的実証的手法の得意とするところ。問題は、過不足の判断や交換と分配に含まれる意味の生成プロセスをどう扱うか?

意味の生成プロセスとは差異の把握から始まる。そしてその把握される差異というのは既に良い/悪いの判断基準を含む。一義的には把握した差異がどれだけ正確であったか?について。そこがクリアされればほぼ反省検証は不可能。論理的には可能でも実際には大多数の人が反省検証などしない。しないで済むこと自体が正しさの判断基準になるから。そうしたたまたまうまくいったものが正しさを獲得していくというプロセスであるから、当然のごとく疑問は呈される。これまた偶発的に、でも間違いなくどこかの地点・時点で。動機は道徳的正しさへの疑念。たまたまうまくいっているだけなのになんで大手を振って正しさを主張しているのか?他の可能性だってあるんじゃないのか?いつでもどこでも通用し続ける正しさなんてものがない以上、”間違いの側”に置かれる者が常に存在して、苦さは様々なれど苦渋を飲まされている。

意味の生成プロセスにはしたがって当然人々の機微な感情・感覚が作用する。生成された意味、円滑に流通可能となった意味は、できあがったものとして放任することはできない。必ず多くの人々が様々な感覚を抱きそして新たな意味を生成していく。お金に意味を語らせることは危険だ。多くの人が、お金がないとほぼ生きることさえままならないシステムに乗っかって生きていかざるを得ない現代では尚更。お金がないとほぼ生きていけないということは、これを真っ向から否定すれば死んでしまうし、そのように信じられているということ。いつ死ぬかは分からない。でも死んでしまうにちがいないと不安がられているということ。このような状況では、お金の持つ意味生成能力は巨大で抵抗し難くまたより単一的だ。生き死にに関わるというのだから、「もっと自由に大らかに解釈を♪」なんて思ってても言えない。「ああ。アンタはいいねー。お金の心配なくって。」って怒りを買うのがオチ。

自他の関係性で決まる意味、自由に解釈可能な意味も、このように様々な制約を受ける。そうした制約があるからこそ意味は交換可能になる。では、この制約のかかり方を知れば、比較的自由な解釈、自由でありながらも交換可能性を望めるような解釈が可能となり、ひいては極めて限定された人々にのみ一番苦い思いを味合わせ続けるという事態は避けられるのではないか?

着目するのはアイデンティティ。私たちは各々の個別具体性を経験的に知りつつ、世間で通用する形で「私、こういうものです」と言動や行動などで表明する。そうしておかなければ、いざ、という時に話も通じなくて、ちょっとしたサポートも受けづらくなってしまうから。現状はそうした交換可能な側面が、儲けたい儲けたい儲け続けないと死んでしまうという意欲(怖れ?)の激しい人々を利するように利用されている。「そうしないとみんな死んじゃうよ」って言われてみんな信じるから。お金は沢山あればあるほど安心だ。沢山沢山動かせるほどエライ。

何故そのようになるか?というと、本来一人一人の人間には「これが私です」と言えるものは無限にあって、その言い方だって無限にあるんだけれど、一定数の他者に理解可能でなければ”意味がない”から。無限とはいわず、「一定数の人に理解可能なアイデンティティ」に限定して、それらの中から割と自由に違う「私」を名乗ってみる、という方法なら可能なのではないか?でも、そうすることは、例えばネット上で同一人物が異なるIDで、とっても巧妙に異なるキャラを演じきれている場合でも、ちょっと道義的に否定的なニュアンスがある。やっぱりアイデンティティはある程度首尾一貫性が”あるべき”と思われている。そうした何となくではあっても感じる道徳的倫理的制約から、人々はある程度容易に分類しやすいアイデンティティでもって自らを他者の目に晒すことになる。

分類可能なら、そういった分類項をインデックスにして、様々なものが計量可能となる。例えば、好きな本や娯楽のジャンルが分類・判別されるということは、必ずしも正確ではなくとも、各人の好みや興味の方向性のような本来内心で起こり処理されている事項が他者からも”見える”ことになる。実際、内心で起こることというのは、秘密にしておきたい側面もあれば、(だいたいは特定の)他者に分ってももらいたいものだから、多少強引な手段・分類のされ方ではあっても、誰もが何でもかんでもに抵抗するわけではない。むしろ自分なりの感覚の方を分類項に合うように解釈しようとさえする。でも通常は、多かれ少なかれ強引な手段なのだから、個々人独自の部分も内心では保持されている。可視化されたもの、計量可能になったもの(インデックス)からは、特に計算やらなにやらの処理を経ると、このあたりの微妙さがほとんど見えなくなってしまう。

お金の価値で表される各種インデックスの大きな問題は、数字で示せちゃうところ。数字というのは実際のところは物的量的根拠があってこそなんだけれども、数字になってしまえば例えば幸せなんかにしても、物的量的根拠はさておき、大きいとか小さいとかのイメージが容易になってしまう。さらに交換可能でもあると。同じ数字なんだから、足したり引いたり掛けたり割ったりしてイコールだと言われれば数式という限定的次元で反論することは不可能だし、事実お金でもって様々な物品やサービスが交換される。でも個々人の気持ちとしては違和感は残る。計算に入れられていない何かが必ず存在するから。

とはいえ、そのような個々の違いは認識しつつも、人々が交換可能な形を見出すことは比較的容易い。しかし、それだとバラエティは乏しくなって、万満足で暮らせる人は限定される(多くの人は何かを妥協し諦める感覚の方が大きくなる)。ならば、容易く交換可能になったアイデンティティをそのまま利用するのではなく、一旦分解してみてはどうか?どうやって?ナラティヴの理論を駆使して

アイデンティティには必ずストーリーがある。なければアイデンティティという認識可能な形を持てない。人は変化の中で生きているものだから。そのストーリーを読む。ストーリーの中に交換可能になりそうなものを見出す。それが可能なら、別の交換可能性の高いアイデンティティを示唆することも可能なはず。交換可能なものを探す道しるべは生きていくために必要な物やサービス、その過不足情報。量的に精密に抽出することも大切かもしれないけど、優先的に考慮すべきなのは「どんだけ困ってんの?」という印象。大げさに表明されているのかもしれないというようなフェイクの可能性も含め。

先ほど提示した四つの方法。不足分を見積もる方法、今ある分から余剰を絞り出す方法、不足を補うために交換・分配効率を上げる方法、そして、現にある余剰を活かすべく効果的効率的に交換・分配する方法。これらがどの程度アイデンティティの背後にあるストーリーから読み取れるか?によって、語っている人の困窮具合或は味わっているであろう苦渋の苦さを代弁してみる。何がどれくらい不足しているのか?有り余るポテンシャルがどのような理由・仕組みで発揮されることを阻まれているのか?これらを効果的効率的な分配・交換への貢献可能性に注目して読み取る。

肝心のデータだけれど、基本的には日常取り交わされる会話なら何でもデータになり得る。とはいえ、現状人々は、会話を分析している人々でさえ、アイデンティティの裏にあるストーリーから、人々の困窮具合を読みとれるなんて信じていないわけだから、誰が見ても何かに困っているだろうと感じられる人々の会話など、限られた設定での会話を観察・分析して、私が提言する手法が使えるのか?一体使えたとして私たちの社会にどのようなプラスの影響をもたらすことができるのか?を理解してもらうことが先決だろう。

例えば、noteの参加者のアイデンティティというのは、自らの創作で価値を生み出せると信じている人々。必ずしも貨幣価値に換算される価値を指してはいないけれど、購読料金設定及び支払いシステムが用意されているので、少なくとも貨幣価値について意識はされているはず。それでも有料ノートのみで埋め尽くされているのではない現状を鑑みるに、何が何でもnoteでの創作活動で貨幣価値を創出しようとしている人はそれほど多くはない。実際に何らかの貨幣収入につなげている人々も、おそらく他のメディア(運営している実業も含む)と複合させることで収入の可能性が高まればいいな、と期待している程度であろう。つまり、困窮具合はさほどでもない。何故そう言ってもいいのか?それは創作物が生きていくのに必要な物品やサービスに化けるまでの過程が全く直線的に繋がらないから。にもかかわらず個々が量の多寡はあれエネルギーを投入し続けている以上、困窮度合いが極度に高いとは言えないだろう。

このように、創作物と個々の生活を支えるためのエネルギー獲得手段との距離が遠いnoteでも、唯一衣食住に必要な物品やサービスに交換されうるものがお金。それでも、noteをこのように使えば収入につながりやすい、という方法は様々で、学んで活かす人もいるだろうけれど、そうした学びがnoteのシステムやそこでの活動に依存する部分は極めて限定的だ。どちらかというとそれぞれの個人の才覚、ひらめき、置かれた環境、物的知的資源などなどに依存する。とはいえ、参加してさえおれば、ふと「あれ?この人なんか似ているかも?」と感じられることもあるし、それがあるだけでも得られるものは小さくはない。なぜなら、違いも類似も、また、ただ「おもしろい」と感じるだけでも、そうした感覚は確実に一つの刺激として残るし、そうした刺激は全く忘れ去られたとしても、様々な可能性を広げるものだから。

そのようなひどく漠然とした個々人レベルの利益に対し、例えば実際に運営している側は、私のモデルに則れば、どのような可能性をnoteに見出し、活用できるだろう?創作意欲及び能力の比較的高い層。それでも現状では各人のおかれた環境などにより、多くの人々の創作物が社会・経済的に有意な価値に繋がっている(生きていくのに必要な物品やサービスの交換・分配効率を上げている)とは言い難い。それほど困窮度合いは高くはないわけだから、別段儲けさせるプラットフォームなどを考える必要性も高くはない。こうして日々大量に蓄積されているデータから、困窮度合いの低い人々の語り口を分析する。仮説として、おそらく、note参加者に特段の支援は不要だ。これは困ってないから、というだけでなく、社会に悪影響を及ぼす言説が形成されにくいから。困窮度合いの低い人間が創作活動に向かう時、彼・彼女らは自他の創作物に敬意を払う余地が大きい。noteが創作を前面に出していることの利点。これが創作ではなく、言論であるとか社会問題への批評などとなると事情は異なる。投稿物が途端に検証の対象となってしまうから。とすると、創作をホストするということの社会的意義は高い。経済的には?直接プラスの影響はないけれども、困窮度がそれほど高くないということは何某かの経済活動に従事しているはずで、その人たちが互いに引き続き経済活動に従事していきやすい環境を形成・維持していくわけだから、”秩序の維持”や”ニュービジネスモデルの下地作り”ぐらいの間接的貢献はあるだろう。

もしも創作活動のホスト以上の価値を追求するのであれば、主流のトレンドを外れたデータを分析してみる。例えばバンバン稼いでいる創作物・参加者や、殊更に攻撃を受ける創作物・参加者など。noteの創作物は、生活に必要な物品やサービスを効率的効果的に交換・分配するのに直接は貢献しないのだから、それが売れるとはどういうことなのか?お金がとある方向へと流れている以上、何某かの価値が交換され、移動している。創作物の評価額が、マーケットとは異なる基準で決まっている(提案され受け入れられている)。それほど困窮していない層が進んでお金を払いたくなるものとは?一つには、お金を払うという行為自体に意味がある。お金を払うんだけれども困窮度が上がるのではなく、逆に低く保てるという確信或は更に低くなるに違いないという希望。自らが評価したものが広く評価されているという事実から得られる安心感。しかし、ある程度の人気度を超えると陳腐化し、他の評価者との差異が見出せず、いずれそのお金を払うという行為の意味は失われる。いずれにせよ困窮度の低い者たちの”高尚な楽しみ”ではあろうけれど。

それでも、創作活動が創作物への敬意を生じさせやすい理由や条件が明確に示されれば、比較的困窮度の低い人々で、創作意欲や能力の高い人々の活かし方も変わってくるのではないか?特に市場原理とは異なる競争性?より大きな評判や収入を競うのではなく、「サポート」することの意味を競う?とか。

前提として外せないのは、創作の世界の外では、常に交換の自動化、これによる資源分配の効率促進が試みられ続けているということ。この外の世界では、本来交換不可能な意味に特定の制約をかけて、交換可能とすることが競われている。このため、現在のところとりあえず大量のデータを集めて、アルゴリズム計算などで交換可能な価値を付け易い要素を抽出しようと試みられている。この大きな流れに抗うことはかなり困難であるけれども、データ提供者側(大多数の人々)からモノ申す機会があってもいいのではないか?

例えば創作活動及び創作物の評価が、誰の目にも明白に見えるモノではなく、逆に見えにくいものに気付く、といったところに大きな意義を見出すという傾向があるのであれば、そのアルゴリズムを加味することもできるのではないか?すぐに自動計算化はできないとしても、いや、だからこそ、外の世界の効率化促進者と対話を持つことが必要ではないか?

また、創作活動に勤しみ楽しむという比較的限定されたコミュニティ内での意味の取り扱い方(創作活動・創作物への敬意など)から、特定のコミュニティであるからこそ陥りがちな罠なんてのも知っておいて損はないはず。

意味の生成プロセスは漏れなく特定の関係性(動く(動いた結果観察可能な形を残す)ものとそれを観察・解釈するものの関係)が駆動していて、様々な差異つまりは不均衡が存在するために起動される。この関係性と不均衡のために、見えているものから見えないもの、見えにくいものが意味というかたちで認識される。しかしこの意味というのはあくまでも個々人が理解したり感じたりするもので、決して固定されたモノではない。その本来見えないはずのものが、とある行動やただそこに存在する仕方などを通じて、他者に理解され、したがって新たな意味となる。この互い違いの繰り返しで、人は自分自身の理解した意味を確認したり、他者が意味せんとしているであろうことを推測したり、より明確な目的・意図をもってとある意味を他者に伝えようとすることができるようになる。

例えば大きな危機感を察知した場合には、よりシンプルに他者と意思疎通を図りたいため、差異よりも類似性をよりどころに人は集まる。さらに、危機が迫っているという印象が強いなら、平時であれば気付くかもしれない、集まりに参画できない人々のことも、気付かないか、気付いていてもケアまでは追いつかない、という事態も頻発する。こうした傾向は致し方ないとして、それでもその仕組み、避けがたい理由などを知っているのと知っていないのとでは、コミュニティ間対立が起こった場合の処理方法などに大きな違いが出る。特に道徳的正しさをお互いに主張し合えば、決して大げさではなく、悲惨な殺戮だって起こりうる。何てったって正しいと思い込んじゃうわけだから。

それほど差し迫った状況ではなくても、例えば創作活動における自他の創作への敬意の仕組みがうまく応用できるなら、一見対立関係にあるコミュニティ同士でより平和的対話を実現しやすい環境を用意することもできるかもしれない。そもそも対話を通じた意味のやり取りは有形物の交換とは異なり、仮定的な提示と類推による読み取りという非平衡・非対称のプロセスなのだから、よりこれを積極的に利用するなら、相手方の真意を引き出す、或はこちら側についての想像を促すという、(何もないというのではなく既知ではないという意味で)未知の何かを問い掛ける、というアプローチも有効であろう。そして創作活動の持つ特性というのは、こうした非平衡・非対称を積極利用するアプローチと親和性が高いのではないだろうか。

意味の生成プロセスを仔細に見てみることは、より動的に集団的行動や組織や社会をとらえ、普遍的恒久的に適用可能な施策を追求するのではなく、たとえ一時的、局地的ではあっても、特定の人々に最も苦い思いをさせ続けることを防ぐ、ということを目指す。より現実的な代替案。

先行き益々不透明な昨今、遠くを見通そうとすることも勿論大事だけれど、身近なところから、たとえ限られた期間や空間ではあっても、不安の度合いを薄める方策を検討してみる価値はあると考えている。


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