必ず書いて表した方がいいか

書き表されたものというのは、字面のみでしか評価されないのなら、そんなに大した意味はないのではないか?

というのも、どんな人だって自分が生きている時代とか社会の状況とかどんな人が周りにいるかによって選ぶ言葉が制限されるし、自発的に制限もする。なので、大事なのは、そうした自発的または強制的に語彙などに一定の制限がかかることまで含めた、考えて書くという行為に含まれているプロセス。

ただそうしたプロセスの中で考えたこと、その上で書きたいと思ったことが、どこまで字面に表されているか?は本人のみぞ知る。

さらに、本人ですら、「どーせ本心は分かってはもらえない」とか「世間に合わせて書いた字面を、世間様に(いわゆる客観的に)評価していただくのみ」とかだと、一体自分は何を考え、それをどのように書き表したいと思ったのか?が書かれたものに克明に刻まれるとは限らない。どちらかというと、本人ですら「何だったっけ?ま。いっか。世間の評価が良ければ。」とか、「やっぱ本心ってのは理解されないものだな。」という感じで、自分の気持ちと書かれたもののギャップを当り前と”思い過ぎる”ようになってしまうような気がする。シニカルな感じ?

文字でも音声でも形となって現れたものって、それ自体には通常思われているほど安定的な意味や価値はないのではないか?

それでも書く話すという行為は止まない。

求められているのは言葉の意味がどのように解釈などを通して生成されていくのかを解き明かすことよりも、何で書くのか?話すのか?をどうすれば読めるのか?ということのような気がする。

何のため?

世代受け渡しのため。

文字の機能に特化した研究はおそらく半永久的に続く。勿論ずっと続けられるべき。

でも注意は必要。

文字の機能に特化した研究というのはいわば普遍法則の追究。

物理やらの研究と何も変わらない。

人間の宿命というか好きなことというか。。。

究極の始点を定めて未来を正確に見通したい。

どうしても止められないだけでなく、実際に物心両面の利益も生み出せる。いわゆるテクノロジー。

でもそんな利益だってみんなに遍く平等に行き渡らせることはできない。「みんな」というのは今現に生活して、死んでいく人、これから生まれてくる人、全部を含む。普遍法則の追究は一朝一夕にならないどころかほぼ永久的な事業なのだから、「みんな」が平等に利益を享受することなど不可能。

これを、理論上究極的には「みんな」に遍く利益が行き渡るはずだ!ということで、善と見做し、「現実世界で生れては死んでいく人々の日常生活における善とはなんだろう?」と問わないのは全人類にとってあまり好ましいことではない。

なんとなれば、一人一人にできることは特に時間的制約のために限られているということに気付きにくくなるから。だって、本人は究極の普遍法則の追究は善だと信じているわけでしょ?で。その追究ってのは多分一生かかっても完了はしないわけ。ってことは、一人一人が、夢の世界の追究をしながら、しかもそれが「いいこと」と信じて、でも、「しっかりとした知識さえ遺せばいい」とかいって、一生現実世界のあれこれについて考えないでいい言い訳にするわけでしょ?

現実としては、選ばれし者達は、夢の世界の追究に一生を費やして、それでも後世の人々から感謝される、という生き方ができるだろう。

問題は。「誰が選ばれし者なの?」ってのは、すぐにははっきりとは分からないということ。

ということは、誰もが希望を持っていたっていいし、既にそのつもりで生きていたって構わない。

それでも。そうであるならば尚更、選ばれし云々関係なく、誰もが、夢の世界だけではなくて、現実世界の人々の日常にだって同時進行で興味は持たなければならないだろう。もっと言えば、夢の世界のこととはいえ、それが多くの人々の日常生活とどのように関連しているのか?を考えなければならないはずだ。

この関連性というのは、夢の世界の知識と日常人々が活用している知識との関連だけではなく、夢を追い求め続けることができる人間も、現実世界で日常生活を送る人間の一人でしかない、という意味での関連性こそが重要。

「私の使命は究極の夢の法則の追究ですから」といって現実世界とは別世界に住んでいるかのように振る舞うなんてのは道義的に許されないと知るべき。

この「現実世界の一員である」という認識がないと、結局、よくて死ぬ間際に、後世に続く人々がいなければ、それまで自分が全力を注いできたことにもそれほど意味がなくなってしまう、ってことにやっと気付く、って感じで、往々にしてそんなことすら分からずに「よーがんばった。自分。」とかいって安らかに死んでいく。

「現実世界の一員である」と認識することは、同時代的な繋がりだけではなくて、世代間の繋がりを意識するためにもどうしても必要。なんとなれば、夢の世界というのは時間を超越した世界だから。いつ何時もどこででも適用可能な法則。そんなものを追い求めていれば、そこにはまだ到達していないと自覚していたとしても、世の中、論理整合的な因果関係が分かりさえすれば、いつでもどこでも何事に対してでも合理的な判断が下せると信じてしまう。それが夢なのだから仕方がない。

でも現実世界は時間とともに流れている。アドリブかましてギャンブル打ってなんとかかんとか生きている。それが現実。誰も一生を通して、証拠を集めて検証して合理的な判断を下しているわけではない。

「選ばれし者」であったとしても、賭けなければならない時が来る。「多分ここらで次代に繋ぐべきだな」ということ。

よく整備された知識体系の探究であるなら尚更、それは自分でなくたっていいわけさ。誰がやったって大きく外れることなく研究を続けていくことが出来る。そうであるならば自分でなければできないこととは何なのか?考えてみるといい。

自分の後を継いでいける人間がいつどこに現れるか?なんて分からないんだ。

勘を働かせて、「このように通訳しておけば、少なくとも自分の追究している知識体系にアクセスしようと思ってくれる人間のベースが分厚くなるはずだ」と見定めて、伝え方、通訳の仕方などを工夫することぐらいじゃないんだろうか?自分でなければできないことなんて。。。


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