言葉っておもしろい

I love you.

“インドのヒンディー語では「与格」という文法構造があり、その言い回しでは「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」という表現をするという。”

与格って何だろう?と思ってググっているとこんな記事にも遭遇しました。

文法書では、自分の意思や力が及ばない現象については、「与格」を使って表現すると書いてあります。(…)要は自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合、ヒンディー語では「与格」を使うのです。

だそうです。

与格とは何ぞや?から始まり同引用記事で印象的だったのが次のフレーズ:

「主格」では捉えきれない利他の構造

ヒンディー語の与格の説明を見ていると何だか利他も利己も自分の意思だけで説明し切れないなあと思われますね。何が自分をまた他人を満足させるのかなんて自他を含むいろんな要素の組み合わさり方でどうとでもなりそうですし。

「これは与格である」というようなことが明らかにされる分析やその説明の仕方というのはなんというかものすごく「主格」的なのがまた面白い。「自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合、ヒンディー語では「与格」を使うのです」というのが真実だとしても、ヒンディー話者達がそのように意識しているとは思えない。つまり「主格」だけでは捉えきれないものについて「与格」の話者達が「主格」的に理解はしていないだろう。

まあもっとシンプルに言語というのは使いながらできていくし変わってもいくというだけのことなんだろうけど、自分だけじゃ分からんもんがあると素直に感じられていた頃の方が理屈がひん曲がってなくて健全そうではある。I love you.なんて相手のあることならなんとなく奥ゆかしさや自他に対するやさしさすら感じられてくる。

それに対して全部が全部とは思っていないだろうけれどかなりな部分個人の意思の力で理解できるしできないのは意思の力の欠如だというような考え方の人間が増えてきているということはそういう言葉しか生まれないということよね。極端に言えば。

けれども問題は言葉じゃない。

どんな人間なんだ?ということ。

理屈がひん曲がってなかったからといってそりゃ人間さまにコントロールできないことが余りにも沢山あり過ぎたということでつまるところ今ほど楽に長生きなんてできなかっただろうし今より幸せだったんだなんてことは言いにくい。

他方、コントロールできることが増えたからといって全知全能とはいかないまでもそれに準ずるぐらいは優れているだろうというような誤った認識の人間が増えてしまうというのは問題だ。

何が?

一番は自分自身のことなんだけれどもそれを含む自然であるとか宇宙であるとかに関する知識が偏ってしまって本当の姿を捉えられなくなってしまうこと。

ここまで人間が少なくとも個体数的には繁栄してきた歴史が示す通りやっぱり自分達を取り囲んでいる環境のことについては正確に知った方がリスクは減らせる。

最も難しい課題は自分自身のことも正確に知った方がよいということ。まずはなんでそれが大事なのかを納得することが難しい。

天然資源やら自分達を取り囲むありとあらゆる環境を利用しようと思ったらそいつらのことを正確に知る必要がある。そうやって科学や様々な技術は発達してきたのだけれど、そうしているうちに明らかになってきたことは、私たち人間の知り方ってものにもクセがあるということ。つまりいつまでもいつまでも精度は上がり続けるのだろうか?というとそれには自分たちの持つクセについても正確に知らなければそれは保証の限りではないということ。

俺は大丈夫。

そんな人はいない。
ゼッタイに。

たとえクセがあるらしいということは分かったとしても残念ながら私たちが自分自身のことを知るということにおいて唯一絶対の方法というものがないから。

今は70億人以上いるといわれているけれどそれだけ個体数があっても十分といえるかどうか私はアヤシイと思っている。無限にいてもどうだろうかというぐらい。

私たちはそれぞれが唯一無二の方法で間違っちゃったりする。一方で感じ方考え方も唯一無二だからどれかが当たりに近い可能性もある。もっと大事なのは相互関係。自分自身のことを知るためにもひとの姿はよく見た方がいいし、ひとから言われることにも耳を傾けた方がいい。

自然や宇宙を正確に知ることと全くかけ離れているように思えるかもしれない。自然や宇宙を科学している人同士だけでも協力して自分たち自身のクセについて正確に知ってればいいんじゃないか?とも。

一理ありそうだけれども中々そう簡単には割り切れないのが人間の住む世の中。そもそも誰が科学者になるのかなんて分からないし、例えば科学者になった人がその他大勢の人間についてただのバカだと思っていたとしたら?やっぱり科学で切り拓かれる地平も大して希望を持てるようなもんにはならないだろう。だってバカな人間はのたれ死んでもよくて科学者とか優れた?人間だけが生き残れるような科学よ?バカをいっぱい殺すようなものが同じ人間を殺さずに済むのかな???私はそんなうまい話はないと思っている。

科学もやっぱり人間全員面倒看なきゃいけないし、それぐらいでないと科学をやってる人自身も自分のクセを知るために参照できるサンプルを十分沢山持てないと思う。どんな間違い方をするのか?どんないい方法があるのか?知るためにはいろんなサンプルがある方がいいと思うのよね。自分たちのコミュニティの外にも。

もはや「主格」で語ることが当たり前になってしまった私たち。そのことで失われてしまったものについて知っておくことも大切。言葉というのは消えてしまった足跡を辿るのにもとっても便利なツールなんだろうと思う。そうやって人間(自分たち自身)って何なのか?絶えず考え続けなければならないのだろう。これまた言葉を使いながら。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?