「頭ぽんぽん」は慈しみのあいさつ
少し前、どこぞの町長が「頭ぽんぽん」して問題になっていた。
時代錯誤などと言われているが、むかしでも、『お前にぽんぽんされる筋合いはねぇ!』という案件である。
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さて、ぜんぜん関係ない頭ぽんぽん。
ーー
兄が亡くなる1週間くらいまえ、自宅療養中、夜中に介助をしていたら、ふいに私の頭をぽんぽんしてきた。言葉はない。
だけど慈しむような ことば を穏やかにまとっているようだった。愛情かも知れない。
あぁこれは私にとって ”挨拶" になるかも知れないと予感した。
「長男たる姿」を常に意識している兄だった。
思うに、妹のまえで泣いたり、見せたくない言葉や姿があったような気がしている。
自分でも予想外なほど死への抗いが生まれ、終を意味する「ありがとう」を、兄は言えなかったのではないだろうか。
ましてや10歳も年の離れた妹。
おばちゃんになっても、兄にとっては私は、ときに幼い妹だったのかも知れない。
ーー
2020年5月、自宅で終末期を過ごす父が、帰ろうとする私に握手を求めてきた。
どこから出たの?というくらい強い力でぎゅうっと握りしめて、「ありがとな、」とかすれた声で、いつものようにさっぱりと言った。
亡くなる二日前のこと。
亡くなって少し経ち、あれは父の挨拶であり、私が気持ちを引きづることなく、過去にするためのギフトをくれたように感じた。
ーー
兄の頭ぽんぽんも同じ感触だった。
終の、ありがとう
もちろん、兄にはそんな意味など無かったかも知れないけれど。
兄が逝ってしまった喪失感や悲しみはある。けれども、感情で日常生活が揺らぐことは無い。
頭ぽんぽんは、他とはちがう色彩を放ちながら、すでに遠くで温もる記憶になっている。
亡くなって半年が経ち、たくさんのギフトに気づく。
3月11日 きょうは兄の誕生日
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