2.知識の本質

貴方がこれまで必死で勉強した国語や数学は会社ではなんの役にも立たないと言われるだろう。でもそれはよろしい。会社で役に立たせるために貴方が必死で勉強したのではないから。学校の先生に「社会とはなにか」と問うてみてください。多分"先生が想像する社会っぽいもの"が出てきます。先生であれ聖職者であれ知らないものを教えることはできません。

「じゃあ何のために……」勘がいい貴方はきっとそう思うでしょう。
生きる為に自らの生涯に彩りを与える為に勉強をするのです。学校教育に於いて言うならば人生に於ける勉強の仕方を学ぶとこだと言ってもいいでしょう。会社で役に立つことが自らの人生だというのならばその会社で役に立つことを勉強する方法を学校教育で貴方は学んだのです。
しかし、それだけで満足でしょうか。私が学校教育を終えて電車で会社に行き、徒歩で岐路につく生活を始めて初めて思ったこと、それは"人生は思ったより長い"ということです。

学校に行っている間は社会に向けてただ突き進む。しかし、突き抜けた先には想像をはるか超える広大な景色もしくは真っ暗な闇が広がっているにすぎないのです。そのときに「これからどうするか」を思考し志向する方法それこそが勉強の本質ではないでしょうか。

読み終えてデスクの端においてあるビジネス書、一回読んだがトリックを忘れたミステリー小説なんかは貴方の知識にはなっていない。そんなことよりも遠方に去った友人の去り際や過去の観覧車で放った緊張の会話など貴方がの脳ミソにこびり付いて離れてくれない記憶こそが知識であり経験です。きっと上司の誉め言葉などで貴方が形成されてはいないことは明確だと思います。

「メモをしろ」なんて言われ始めて幾数年、されども貴方の本質の知識の部分は自分さえメモしてない"何か"で形成されている。そこを闇夜のバーなんかで曝け出して「馬鹿だなぁ」なんて言ってくれる友人ができた頃には貴方の必死の努力は報われているのでしょう。
その本質的な"何か"をここで喉元を掻き切って溢れる血潮の如く文にできたらそれはほんの少しだけ素敵な事ができたと思えるのです。

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