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降っても、晴れても。


 解散してしまった好きだったバンドのメンバーが、新しいバンドを結成しているのは知っていた。でも、曲を聴いたことはなかった。


 新バンド結成から何年も経っていたけれど、今になって聴いてみようかな、という氣が起こり、朝からアルバムを順に漁っては耳障りにならない程度の音量で流し続けている。サポートメンバーによって元はなかった楽器が入っている効果もあって、旧バンドの好きだった頃のテイストは残しつつも、やはり異なる音楽になっている。


 そりゃそうだよね、と思いながら、こちらのバンドもまぁまぁ、好きかもと、旧バンドを聴きまくっていた頃のことを思い出したりしている。


 そうそう簡単に、趣味嗜好なんて変わらないんだよ。徐々に変わることはあっても。









 それでも変わってしまった、たくさんのことがある。








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 諸行無常。


 最近、殊更に自身で書き連ねてきた記事を読んでいた。自らに起こる出来事の端々に「変わらないものは何もない」と、そんなようなことを幾度となくタグ付けては書き続けてきた私と再会した。


 諸行無常だろうとグラデーションだろうと表現は数多に存在していて、あらゆる自然物が、出来事が、普遍的且つ見落としがちな何かを毎分毎秒、教えてくれているのだけれど、如何せん ”人間” と書いて ”忘却” と読みたくなるほどに忘れっぽい私たちは、人に流され出来事に流されて、目の前にある大切な何かに、探していた答えに、ありがたい導きに、奇跡に、氣づけないことのほうが多い。


 かく言う私もそうで、嗚呼これも、私が私を人間たらしめている愚かさなのであって、氣づいて受け入れたらあとは、赦してしまうだけのことなのだけれど。矛盾や曖昧さや対極といった種々の要素がごちゃまぜになったカオスの中にいて生きていられる人類というのはある意味で逞しく、稀有な存在だなぁなどと、他人事のように眺めている自分が可笑しい。


 変わらないものは何もない世界で、変わっていないつもりで生きていたり、変化に追従して生きていると思い込んでいたり。滑稽で愛らしい私たちに終焉があるとしたらどんな形に進化しているのだろう、などと、際限なくどうでもいい夢想に耽っては沈んでいく底なしの海よ。 


 こんな私の性質は、自身で書き連ねてきたすべての記事にその片鱗があって。諸行無常の世界において、なぜだか変わらない。












 いや、変われない。
 だからこの先も飼い慣らすしか、ないんだけど。










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つれづれなるままに
日暮らし
硯に向かひて
心にうつりゆくよしなしごとを
そこはかとなく書きつくれば
あやしうこそものぐるほしけれ

「徒然草」


 兼好法師は「妙におかしな氣分、狂ったような心持ち」になったようだけれど、取り留めもなく、意味もなく、誰かに晒す必要もないことを指に任せて書き殴っていたら、妙に落ち着いてくるという感覚は理解できる。哀しいかな現代人同士ではなかなか得られないシンパシーを、鎌倉時代の随筆に憶えてしまう自分がいる。


 心に浮かぶことが「うつりゆくよしなしごと」ならば、反映される現実も「うつりゆく」と捉えて当然なのだけれど、それらはスクリーンに映し出されたテロップのように現れては一瞬で消えていくから、何を考えていたかなんて、何を感じていたかなんて、人間は簡単に忘れていく。


 いつもの駅で聴いていた電車が到着する時のメロディーも、よく行ったお店の閉店時間や定休日も、たまに見かけたお隣さんの顔も、時々戯れた野良猫の手触りや鳴き声も。日常でなくなった瞬間から、私から遠ざかっていく。さながらテロップのように跡形もなく消えて、思い出そうとしてもそれは触れられないホログラムとして再生される。


 その当たり前や記憶が日常的であればあるほどノスタルジーを伴い、深遠に馳せる想いには人を感傷的にさせる何かがマーブルに溶け合っていく。生温い懐かしさもひんやりした寂寞も、そうやって生まれていくのだろう。


 しかし愚かだなと思う忘却という機能も、悪いことばかりじゃない。あんなに憔悴した日々も、呼吸を忘れてしまうほど息が詰まる空間で対峙していた誰かのことも、一時であっても離れて忘れることで、癒えていくこともある。防波堤を超える激しい波がゆっくりと落ち着いて、凪いでいくように。鉛色の空が嘘みたいに澄んで、やさしい涙が溶けたような、水色になるように。











 忘れちゃいけないこと。


 忘れたくないこと。


 忘れてもいいこと。


 忘れたいこと。


 







 記録は主観的ないし客観的事実として残れども、記憶は時間とともにあらゆるエッセンスに影響され形を変え色を変え、温度も変える。そうやって記憶とは、脚色もされるしまた消失もする。


 今この瞬間に思い浮かぶことは、一体どこにカテゴライズされるのだろう。忘れたくないことだろうか。だからこうして私は書き殴っているのだろうか。記録として残すために。形も色も温度も、できるだけ変わらない記憶として、留めておけるように。


 やさしさに出逢う度に、愛に出逢う度に、慟哭に似た重い痛みを憶え抱えてしまうこの心臓の奥は、同じ温度や熱を帯びたまま、忘れたくないことを携えて生きていけたらと、いつもただ、願っている。この願いに忘却の干渉など存在せず、すべて鮮明に美しいまま、やさしく抱きしめて還りたいのに。










 こんな他愛ない願いも、諸行無常なのだろうか。












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 振り返ったら誰にでもある、人生の岐路。


 それが幸でも不幸でも、どんな瞬間であったとしても、後になって振り返れば何事もなかったかのように日は昇ってまた沈んだし、月は満ち欠けを繰り返したし、星は瞬いた。花は咲いて枯れて土に還り次の季節にまた咲いたし、いつもの野良猫はいつも通り何食わぬ顔で、私の足元に擦り寄って撫でられていた。


 変わらないものは、何もない。
 しかし輪廻の中で、確実に繰り返される営み。
 

 聴いていた音楽のテイストが変わっていたことに氣づいて、スマホの画面を見ると、別のバンドの曲がかかっている。アルバムすべて、流し終えたらしい。ふいにビルエヴァンスを思い出して、斜陽差し込む部屋を彼のピアノの旋律で満たす。


 変わらないものは、何もない。
 奏でられる音楽も、流行りの音楽も。
 聴きたい音色も。


 話したい本音も。


 でも。


 雨が降ろうが晴れていようが、どんな心音を奏でようが、私は私を生きるしかないのだし、その瞬間その瞬間の私が選んだもので私の世界はできていて、それはずっと、死ぬまで変わらない。


 終末の長月なんて名前が、我ながらチープだけど似合いそうな真っクロに染まったオセロの盤を、今月は毎日一つずつシロにひっくり返すような日々を送った氣がする。神が不在になるだなんて嘘のように導かれたから今があって、それはあの日あの瞬間に、否が応にも間違いなく私が選んだと迫る現実には未だに少々たじろぐけれど、私一人ではシロにひっくり返せなかった日々を想えばこそ、人は日々生きるのに、感謝以外の何に氣づけばよいのかとさえ思う。


 忘れたくないとか忘れちゃいけないってこういうことなんだよなと、毎日のように思い返しては、全身を慄然が巡る。これをこの人生で忘れてしまったら、私は私を人として疑うだろう。


 懐かしい曲が流れてくる。
 嗚呼この曲は、ビルエヴァンスのアレンジも好きだけれど、マイケルブーブレが歌ったカバーも好きだった。今朝から聴いていたバンドの曲のことは、もう忘れている。人は、こうやってすぐに忘れてしまうんだ。


 ここに記したことだって、いつか忘れるのかもしれないけれど。










 私の傍にいてくれるあなたへ。






 生きるって、時々大変だし、面倒だし、逃げたくなる時もある。






 でもきっと、大丈夫と思える。






 降っても、晴れても。






 あなたがいれば。









 Happy together, unhappy together
 And won't that be fine

 I'm with you
 Come rain or come shine





 言葉の海 hana








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