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犬撫でアジア人のトゥルーマン・ショー

知らない人から、「前に会ったことがある」と言われるのは、ひやっとするものです。自分にとっては見覚えがない人なのに、相手は自分を知っている、とても奇妙なミステリー小説のような展開です。いつどこで、どんな場面で会ったのか、子どもの乳歯のように抜け落ち、記憶から失われています。

異国の地で生きていると、どうせ誰も私のことなんて知らないし、気にもとめてないし、と、後先考えずに行動することがあるのですが、実際には人は思った以上に他人のことを記憶しているもので。

私は、完全に初対面だと思っていた人に「あなたは私の犬を撫でたことがある」と、言われたことが二度ありました。

一時期、マルタの動物病院でボランティアをしていました。その動物病院では、野良猫や捨てられた犬の去勢・避妊手術がおこなわれていて、私は手術器具の洗浄・消毒、ケージの清掃など手伝いをしていました。

私は人間よりも、できれば犬猫と過ごす方を好む人間でして、動物病院はうちからバスを乗り継ぐ遠さでしたが、乗り物酔いをなんとかやり過ごしながら通っていました。

朝一からの手術がひと段落すると、コーヒーを作ってみんなで休憩を取ります。若いマルタ人男性獣医さんと雑談をしていた時、彼が飼っている犬の話になりました。確か犬の名前はピッパです(獣医さんの名前は覚えていないのですが)。

「あなたはピッパに会ったことがあると思うんだけど。前に、スリーマの海岸沿いのカフェテラスに僕たちは座ってて、あなたは犬を撫でに来たでしょう」と彼は言いました。

私はその獣医さんと完全に初対面だと思って話していたものですから、何も悪いことをしてないけどお巡りさんに呼び止められたくらい動揺しました。

しかしながら獣医さんが言った状況は、まったくもって私がやりそうなことで、記憶にはないけど身に覚えがあります。

カフェ、犬、テラス、犬、と頭の中の引き出しをあちこち開けて引っかき回していると、白と黒のジャックラッセルかラットテリアが、出てきました。

小柄な犬が、テラスの端のテーブルの椅子の下に横になっていたのを見つけて、私は「こんにちは、あなたの犬に挨拶していいですか?」と近づき、撫でました。椅子に座っていた人間は若い男女だったのですが、私は飼い主には関心がなかったもので(失礼)、完全に無意識の方に追いやられていました。

その人の職場にボランティアに行くとは。世の中は狭いものです。

ある時、私たち(相方と私)は知らない小さな町を散策していました。友人が長期に家を留守にするため、その間、「植物に水やりしてくれないかな、うちを自由に使っていいから」とオファーしてくれたので、スペインのカナリア諸島の友人宅に数週間滞在していました。

そして、初めて滞在している島で、初めて訪れた町の、カフェのテラス席でコーヒーを飲んでいたら、通りすがりのファミリーの知らない男性に、「あー!あんたたち昨日パチチにいたでしょ!」といきなり声をかけられました。昔の友人にたまたま道で出会って、思わず出た声のような盛大な音量です。

我々はものすごく驚いて「え?パ、パチチ?人違いじゃないですか」という反応をしたのですが、男性はひるむことなく「パチチだよ!パチーチ!昨日の夜にいたじゃん、俺が連れてた犬撫でたじゃん」と言います。

あまりの確信を持った彼の勢いに圧倒されながらも、この島は初めて来たばかりですから「パチチは知らないし、たぶん私たちじゃないんじゃないかな」と言い、この知らない男性は、少し呆れ顔の家族に、お父さんもういいでしょう、といったように促され「パチチで見たんだよ」と言いながら去って行きました。

私たちは予期せぬ威勢のいい声がけにあっけに取られながら、「なんだったんだろうね、あの人?パチチ、パチチってなんのことかわかんないし。でも、私たちみたいな片方アジア人の組み合わせなんて珍しいから、そんな見間違えないよね。しかも、犬撫でたって言ってたし。ものすごく、私がやりそうなことだよね。覚えてないだけで、犬触ったのかな?」と、話していました。

この男性が言う”昨日の夜”は、私たちは中心地近くのレストラン「アミーゴ・カミロ」で夕飯を食べて、その後海沿いをかなり歩いて、タクシーを拾う前に、居酒屋みたいな所に立ち寄り一杯ビールを飲みました。

「あのバーはどこだったっけ?」とグーグルマップを開いてみると、パチチ、と書いてあります。

「あぁーーー!店の名前パチチだったんだ!」

わたしたちがふらっと寄ってビールを飲んでいた場所は、先ほどの彼が連呼していた、パチチだったのです。わたしたちは驚き大笑いしました。

それにしても、犬触ったっけ?と私は首を傾げながら、「あの人のこと全然記憶にないね」と私。

相方も「うん、あの人のことは覚えてないけど、彼が犬触りにきた人を覚えてるんだから、きみっぽいよね。そして僕たちの組み合わせで覚えてるみたいだから、きっとそうなんだろうね。それにしてもさっき、悪いことをしたね。彼の家族はきっと、彼がクレイジーなこと言ってる、って思っただろうね」と言い、世界は広く大きいけど、同時に小さいね、と話しました。

だって昨日いたパチチと、今いる散策している小さな町は、海沿いの繁華街と山の方とで、かなり離れている。その山の町の小道のカフェの軒先でコーヒーを飲んでいる時に、昨日私が触った犬の飼い主が通り過ぎて声をかけてくるなんて、まるでトゥルーマン・ショーみたいです。

90年代にあった「トゥルーマン・ショー」というジム・キャリーの映画をご存知でしょうか。普通に生きてきたと思っている主人公は、実は撮影セットの中で生きていて、すべての出来事は演出だったという話です。

急に世界がそこしか存在しないような、不思議な偶然です。私たちはコーヒーを飲み終え、散策を再開し、町の教会に入り椅子に座って見学していました。

すると、先ほどの昨日私たちを見たと言う男性と彼の家族が教会に入って来たので、相方が彼に手を挙げてあいさつし、「わかったよ、パチチ、昨日確かにそこにいたよ」と言うと、彼はまた大きな声で「そうだろう、パチチだよ。あんたたちいただろう」と嬉しそうに言いました。

相方は「家族の皆さん、彼は正しかったですよ、妄想で口走ってるんじゃなかったですよ」と言って、彼はまた嬉しそうに笑い、「良い1日を」と言い合い、私たちは彼らが教会から出ていくのを見送りました。

人々が旅先で、普段飲まないカクテルを注文してみたり、ちょっと大胆なビキニを着てしまうように、私は外国だから構わないだろうと、犬を撫でまわしているわけですが、飼い主の人たちはみなさん優しいので。

もし私がトゥルーマン・ショーの中に生きているなら、あの飼い主さんたちは役者で、次の展開に繋げないといけませんから、優しかったのかもしれません。

でも、まあ、犬撫でアジア人のトゥルーマン・ショーなんて何も面白くなさそうですね。世の中は思っているより狭い、世界は大きいけど小さい、ということですね。

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