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幼少期の話②小学校編

小学校に上がったが、学区的に同じ幼稚園の子は少なかった。
相変わらず集団行動が苦手だったので、小学校も苦手だった。
通学が幼稚園と違って自分で通うスタイルに変わったため、学校に時間通りに着いていないこともあるし、昇降口で座ってることもあるし、保健室に足が向くこともあった。もはや教室に朝の会の時点で座ってるだけで奇跡な子だった。おそらくこの時期誘拐されていたら、気づかれるまでだいぶ時間がかかっただろう……治安が悪い街ではあったが、程よい田舎で私の顔は街に知れ渡っていたので、あまり誘拐の心配もなかったのかもしれない。
保健室の先生に最も懐いたため、保健室に入り浸ってることも多かった。

無駄にオシャレへの関心は強かったため、当時にしては珍しく、赤以外のランドセルを背負っていたため、予定外に目立ってしまっていた。
低学年の時は、なぜか高学年のお兄さんとお姉さんに可愛がられていた。よく話しかけてくれていたが、人見知りを常に発動していたので、塩対応で返していた。
3年生以降は保健室の先生が変わったことにより、保健室という選択肢が消え、必然的に教室に行く回数は増えた。好きな男の子ができたのもあるだろう。
高学年になるにつれて、クラブ活動や委員会、クラス以外のあらゆる集団行動がのしかかってきて、より一層逃げ出したくなっていた。
唯一、音楽の授業は好きだった。音楽の先生が、歌が上手ねとか、ピアノ伴奏やってみる?とか、色々と寄り添ってくれた。受験期を迎えた時も、息抜きにピアノや他の楽器を弾かせてくれた。自分を出す唯一の授業だったかもしれない。
運動は当時から全くダメだったので、体育はどうにか回避できないかを考えていた。なぜか一輪車だけは乗れたので、放課後も、相場は自転車だが、一輪車で家から友達の家まで行くような子だった。

両親は無理に学校に行けとは言わなかった。
以前書いたが、勉強ができなくて怒る親でもない。必ずしも学校に行くことがすべてではないと思っていたのだろう。
たまたまだが、父親が私の小学校に仕事で来ることがたまにあったので、歴代の校長先生とも面識があり、「今日は学校にいるんだね」と声をかけられていた。
昔からなぜか、この年齢になった今も、年上に好かれる傾向にある。大人に囲まれて育ったことと、これは今でもだが、精神年齢が低い人に苦手意識を持っていたからかもしれない。精神年齢が高い人の側にいるのが落ち着いた。

自由な登校スタイルを勝手に取っていたが、友達がいなかったわけではない。この年齢でありがちな、仲良しグループみたいなのに属していたわけではないが、放課後に遊ぶような友達もいたし、両親共働きだったので、学校から友達の家に寄って遊んでから家に帰る形も多かった。
それから、これは後日改めて書くが、習い事もたくさんやっていたので、学外の友達との関わりが学年が上がるにつれて増えていったように思う。

次は中学にあがっていくが、私立の女子校に行くことになる。
ここから私は、女子校ライフを生き抜くために強くならざるを得なくなるのだが、これはまた後日。

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