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「雲の影を追いかけて」の全章

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花子出版オリジナル、雲の影を追いかけての全章です。
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雲の影を追いかけて    第1章「前半」全14章

第1章  夜寒の蛇口から流れ出る冷水を、頭上から浴びるように高尚な文字を追い続け、衒学的な口調を偏愛し、文学の泉に潜り込む。安普請の六畳一間のアパートで、握り拳で容易に穴が空いてしまいそうな薄い壁を背にし、世紀の文豪が残した小説を眺めた。日に焼け古色を帯びた本を、いったい何度読み返しただろうか。ページを捲る度に、懐かしい紙の香りの上に印字されている文字が突如として変貌する。いや、実際は文字が変貌しているのではない。心的、体的、時間的、宇宙の変動、四季の遷移、刹那的人間関係の

雲の影を追いかけて    第1章「後半」全14章

第1章「後半」  清澄な朝日が、聳え立つビルの間を摺り抜けて牛丼屋へ差し込む。二人は出勤前の会社員へ、途切れる事なく牛丼を提供し続け、終業を待つ。夜勤の疲労が足腰に蔓延り始め、裕の声が幾分小さくなっていた。打って変わって、田中に疲れた様子はなく、元気に接客を続けていた。  交代勤務者の主婦へ仕事を引き継ぎ、二人が牛丼屋を出る頃は、街が眠りから醒め、慌ただしく動きだしていた。裕は、朝の街が奏でる希望と倦怠の音色に耳を澄ませた。大きく息を吸った。街の埃が喉を掠めた。 「お疲

雲の影を追いかけて    第2章「前半」全14章

第2章「前半」  携帯電話の着信音が鳴り響き、安らぎに満ちた暁闇が鋭利なナイフで裂さかれた。裕は一度も起きることなく十二時間以上眠りに就いており、固まった身体を動かし携帯電話の画面を見た。画面には花子出版の編集者の名前が浮かんでいた。通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。 「おはようございます。杉下です」  編集者の杉下の甲高い声が携帯から溢れた。裕と杉下は、新人賞受賞からの繋がりで、出版や取材にあたり定期的に連絡を取る間柄だ。メールでの瑣末なやり取りが多く、電話は数

雲の影を追いかけて    第2章「後半」全14章

第2章「後半」  牛丼屋の扉を開いた。 「いらっしゃいませ。あ、裕君か。おはよう」 「おはようございます」  裕は軽く頭を下げ、更衣室へ向かった。制服に着替え、いつも通りの仕事を始めた。 「裕君。今日はどっちする?」 「僕、今日も厨房で良いですか?」 「構わないよ。ピークが過ぎ去るまで、頑張って回そう」  二人は清掃作業を済ませつつ、懸命に働いた。深夜のピークが早めに去り、普段より早めに厨房裏のパイプ椅子へ腰掛けた。 「裕君。今日は元気が良いね。何か嬉しいこ

雲の影を追いかけて    第3章「前半」全14章

第3章「前半」  珈琲の香りが立ち込める大衆喫茶は、老若男女が入り乱れて賑わっていた。裕と田中は店内の角にあるテーブルに座り、注文した珈琲を一口飲み、密談を始めるようにひっそりと会話を始めた。 「勤務前に時間を作ってもらって、すみません」 「いえいえ、構わないよ。それでね、母さんに聞いたんだ。先ずは、芥川賞の最終選考にノミネートされたことを大絶賛してた。僕が本を渡したら、『読むのが楽しみだ』と言っていたよ。あんなにはしゃいでいた母さんを見たのは、久しぶりだなあ。  おっ

雲の影を追いかけて    第3章「中盤」全14章

第3章「中盤」  翌日、降り続いた雨は上がった。ビルの壁に付いていた埃が洗い流され、街の輝きが増していた。裕と田中は、牛丼屋から田中の家を目指し歩いた。  閑静な住宅街の一角に田中の家が佇む。田中は玄関を開けた。 「さあ、どうぞ」  緊張する裕は、視線を振りまきながら靴を脱ぎ、玄関に上がった。田中が先導し、二人は廊下を抜けリビングに入った。中央に木製の大きなテーブルがあった。 「さあ、座りなよ」  田中は椅子を引いた。裕は椅子に座る。 「麦茶でも、飲むかい?」

雲の影を追いかけて    第3章「後半」全14章

第3章「後半」  太陽が頭上まで登り、日差しは強かった。祥子は真っ黒い日傘をさし、影に素肌を隠した。裕は顔を動かさず、瞳を懸命に動かし、足元から舐めるように祥子を見入った。瞳に映る祥子は、見れば見るほど還暦間近とは思えない。近年の美容技術向上、食生活の変化、女性の美への求愛、それぞれの貢献者一人一人に頭を下げて回りたくなった。勿論、祥子の努力や、体質、遺伝、ファッションセンス等もあるだろう。いずれにせよ、期待を遥かに超えた女性に戸惑いつつ、夏休みを控えた少年のように高揚した

雲の影を追いかけて    第4章「前半」全14章

第4章「前半」 「こんにちは。裕君」  祥子は柔らかそうな素材の赤いスカーフを巻き立っていた。 「こんにちは」  裕は緊張が口元に張り付き、少しおぼつかない。 「では、行きましょうか」  二人は洋食店に向かって歩き出した。行き交う人混みの中、二人は距離を詰めて歩く。対向者とすれ違う際、二人の腕と腕がそっと触れた。裕は身体が強張ったももの、気にしない素振りで歩く。祥子も気にしている様子はなかった。暫くし、裕は意図的に腕に触れてみた。祥子の柔らかい肌の感触が腕に伝わり

雲の影を追いかけて    第4章「後半」全14章

第4章「後半」  似たり寄ったりの建売が並ぶ住宅地に着いた。祥子は足を止め、繋いだ裕の手を離し、日傘を閉じた。鞄から家の鍵を取り出し、一軒家の扉を開けた。 「ただいま」  祥子の声が家内に鳴り響き、ひっそりと消えた。祥子の父の返事はなかった。室内は綺麗に掃除され、不要な物がなく整頓されていた。裕は、掃除する祥子を思い浮かべ、培った女性像と擦り合わせた。 「父さん、寝ているみたいね。さあ、裕君上がって」  祥子はスリッパを取り出し、床に置いた。裕は玄関に上がり、スリッ

雲の影を追いかけて    第5章「前半」全14章

第5章「前半」 「もしもし。芥川賞の発表会当日の流れの事でお話したいのですが、今って、お時間ありますか?」 「もしもし、杉本さん。今、大丈夫ですよ」  裕はガムテープを床に置き、ボールペンに持ち替え、電話から漏れる声に集中した。アパートの小さな部屋は、引っ越し準備で大小様々な段ボールが散らばっていた。 「ありがとうございます。当日ですが、受賞されると東京會舘で記者会見がありますので、東京會舘の近くでお茶でもしながら、発表を待ちたいと思っています。この流れで、如何でしょ

雲の影を追いかけて    第5章「後半」全14章

第5章「後半」  中型トラックから多くの段ボールが運び込まれ、部屋に詰められてゆく。本が窮屈に入る段ボールは、引っ越し業者の男性が眉間に皺を寄せて運んだ。 「これで荷物の搬入は終わりになりますが、他にご用はありますか?」 「特にありません。今日はありがとうございました」  裕は、引越し業者の男性に深々と頭を下げた。  去って行くトラックを見送り、玄関を閉めた。大学生の時から十年程住んだアパートから祥子の家に引越しを終え、聞き慣れない軋みを鳴らす階段を上がり二階へ向か

雲の影を追いかけて    第6章   全14章

第6章  幾何学模様の木目が目立つ分厚い天板には、随所に傷や凹みが目立つ。和夫の肘や腕などを献身的に支え続け、和夫の馳せる思いをニスのように塗り込んだ机が、原稿を進める裕の仕事場となった。引っ越しの際に破棄した味気ない机より、不思議と執筆が捗っている。  祥子の実家に住み始め十日程経った。以前住んでいたアパートは、家電を全て処分し、大家へ鍵を返した。部屋に搬入した荷物は、祥子の手伝いもあり、綺麗さっぱりと本棚や押入れに収まった。  祥子はパートの日数と時間を減らした。和

雲の影を追いかけて    第7章「前半」全14章

第7章「前半」 「あー、もしもし。あ、受賞ですか。それは良かった。はい、はい、はい、では失礼します」  裕は終話ボタンを押した。同時に、盗み聞きするように耳を澄ました編集者たちが、大声で叫びながら感情を四散させる。何事かと驚く一般客は、目を丸くして振り向く。裕は一般客へ小さくお辞儀をし、平静を装い席へ座った。 「少し時間があるので、ご家族や友人に連絡して良いですよ」  編集者の杉下は涙を浮かべた。裕は携帯電話を取り出し、液晶に些細な吟味を浮かべ、電話ではなくメールを書

雲の影を追いかけて    第7章「後半」全14章

第7章「後半」 「ただいま」  玄関の扉を開け、中に入った。玄関の明かりは点いていた。祥子が点けてくれていたのだろう。玄関の明かりを消し、リビングの扉を開けた。天井の薄暗い豆電球の下、寝巻きを着る祥子がソファに座り、瞼を閉じていた。白い手が『月の雫』の本を握りしめている。裕は音を立てず、祥子の隣に座った。祥子の寝息が聞こえてくる。祥子の顔を眺めた。仄かな明かりが、化粧を落とした祥子の顔を照らしている。目尻、法令線、顎、額、瞼、至る処の皺が、水墨画の墨のように濃淡を刻みなが