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『義』  -大学にて- 長編小説



-大学にて-

 新宿で過ごした稀有な夜から、一週間ほど経った。遥香が大輔に連絡することはなく、学部も違うため顔を合わせることもなかった。大輔は大学へ行き、講義を受け、夕方からアルバイトする生活は、変わりなく続いた。溢れかえった恋愛ソングを拝聴し、失恋で悲傷した感情を、涙の海で慰めるような、若者らしい発想は微塵も浮かばず、記憶に残る遥香の影を熊手で掻き集め、記憶の片隅に葬る作業をコツコツと行なった。常々、古臭い男だと、自負している。

 とある講義中、大輔の隣に友人が座った。友人はニヤケ面だった。

「なあ、大輔、合コンしようぜ。SNSで女子大の可愛い子と出会った」

「健斗か」

「どう、合コン? 遥香ちゃんと別れて、寂しいんだろ?」

 健斗は大輔の顔を覗き込む。健斗の目が、窓から差し込む陽の光を拡散させる。健斗は陽気だった。

「寂しくはない。失恋ってこんなもんか、と達観しているよ」

「全くもう、強がりやがって。そんなんじゃ、女の子にモテないぞ。なあ、付き合えよ。人数が足りていないんだ。少しだけでも良いからさ」

「人数合わせか、俺は」

 大輔は口調を強める。

「まあまあ」

 健斗は大輔の背中を摩った。

 健斗は、大輔と対照的な華奢な骨格で、肉と呼べる筋肉が殆どない。女の子受けする鼻筋が通った顔で、いつも、サラサラした茶色の髪を風に靡かせていた。大輔と健斗は、同じ学部で、且つテニスサークルへ一緒に入部し、一緒に退部した腐れ縁だ。大輔と違い、健斗の周りには常に女の子がいた。

「今日、空いてる?」

「今日はアルバイトが休みだから、空いているよ。今日が合コンなのか? 急な話だな」

「うん、今日。新宿の居酒屋で行う予定。一緒に行こうぜ。明日は土曜日で休みなんだしさ。ゆっくり飲めるよ」

「新宿か・・・。分かった、行くよ」

 健斗は携帯電話を眺めながら、女の子と連絡を始めた。

 吃り調子の教授が独り相撲をし、講義は穏やかに進んでゆく。机の上には教授の本、ノート、筆記用具が乱雑に広がる。シャープペンシルが退屈しているように思え、大輔はノート空白に、レストランから眺めた新宿の街を想起しながら、ペンシルで描いてゆく。四角い長方体を描き、小さな窓をばら撒いて陰影を被せる。ビルの形状は樹木と違って、曲線がなくシンプルに描けた。

 時間の経過と共に、複数のビルが完成したが、なんだか物足りない。人がいないからだろう。新宿には溢れかえるほどの人がいた。人を書かなければ、街としての魅力に欠けてしまう。ページを捲り、人を描こうとペンシルを動かした。誰でも構わない。新宿には多様性に富む世界中の人間が行き交い、目的の有無に問わずに、鉄筋コンクリートの海を遊泳している。

 特徴のある人物の方が描きやすい。似たり寄ったりのアイドル顔では描き辛く、尚且つ物足りない。ペンシルも、濃い陰影を求愛しているようだ。大輔とペンシルが望んだ男は、BARで出会った吉田だった。ペンシルが空白を走り出す。

 しかし、ペンシルの細い線を、幾多に重ねても吉田の表情へ追いつかない。吉田はもっと濃く、もっと深淵だ。大輔は一息つき、更に筆圧をかけて、ペンシルを動かす。

 しかし、いくら懸命に指先を動かすも、吉田を描き切ることは出来ず、ペンシルを放った。すると、小指の側面が真っ黒に染まっていた。

「それ誰? 歴史の武将?」

 横に座る健斗が、大輔の黒ずんだノートを覗き込む。

「吉田さん」

「誰? 有名人?」

「一般人。いや、恐らく一般人だと思う」

「へー、友人?」

 健斗は詰まらなそうに問い掛ける。

「友人ではない。新宿で偶然出会った男。強靭な肉体で、寡黙で、とても格好いいんだ。でも、こんな安っぽいペンシルじゃ、吉田さんの魅力を一つも描き切れない。吉田さんに申し訳ない」

「そんなにすごい男が、新宿にいるんだ」

「うん、いる。吉田さんに、もう一度会ってみたいなあ」

「女優やアイドルに会ったほうが、目の保養になるじゃん。ミニスカートからチラッと見える細い太腿や、焦らすように膨らんだ胸元、まだまだあるぞ」

「まあまあ、健斗の意見も分からなくもない。性の捌け口になるだろうし。でも、そんな売り物の魅力ではない。本物の魅力だ」

「へー。そんな男がいるんだ。俺はその辺の女でいいや。今のところ」

「蓼食う虫も好き好き」

「なんだそれ?」

「人の好みはそれぞれってこと。今日は何時から?」

「十八時から。一緒に行こうぜ」

「ああ」

 大輔はノートのページを捲った。白いページ越しに、描いた吉田がうっすらと浮かんでいた。

 長い講義を終え、大輔と健斗は別れた。太陽が頭上にあり、夕方までには時間がある。大輔は次の講義を欠席し、学内にあるトレーニングルームへ向かった。無目的に運動を求める際は、決まってトレーニングルームへ向かった。これも、体育を好んだ歳月のなごりだろう、と身体の所為にし、講義をサボることへの後悔はなかった。

 運動着に着替えてトレーニングルームに入ると、アメフト部やラグビー部の学生のトレーニング風景が目に入る。大輔は邪魔にならないように、隅に移動して関節を伸ばしながら準備体操を始めた。

 トレーニングマシーンに移動し、インターネットで手にした情報、トレーナーから教わる方法で見様見真似の運動を繰り返しつつ、筋肉に負荷をかけてゆく。いつもと同じトレーニング内容だったが、心境は違っていた。遥香に言われた男性像からかけ離れてゆくのだ。拍車をかけ、自分の矜持を華美させる。清々しかった。

 ベンチプレスでトレーニングを始めると、隣のベンチプレス台にアメフト部の男が寝そべった。大輔より大きな体躯だ。大輔は男を横目で眺めながら、軽めのベンチプレスを持ち上げる。隣の男は大輔の倍のベンチプレスを持ち上げ始めた。大きな呼吸と共に、腕の筋肉が躍動し、顫動し、細く青白い血管が浮き出ている。感銘を受けながら見入りつつも、違和感を感じた。男の肉体は、職人が作った蝋人形のようだった。本物ではなく、偽物だ。本物はどこにあるのだろうか、と思索を巡らすと、吉田の肉体が浮かんできた。大半がスーツで覆われていたが、首筋や指先には本物の片鱗が見え隠れしていた。スーツを脱いだ吉田を見てみたいと思った。

 目を逸らし、自分のトレーニングに集中する。吉田はどんなトレーニングをしているのだろうか。屈強な肉体を維持するためには、本物の肉体を維持するには、恐らく過酷なトレーニングを積んでいるはずだ。一流のトレーナーが専属でついているのかも知れない。アルマーニのスーツを着ているわけだから、専属料理人を雇っているかも知れない。吉田への妄想が膨らんでゆく。


続く。


長編小説です。

花子出版    倉岡

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。