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『義』  -『義』とは-    長編小説



『義』とは

 それから、数日経った。大輔は大学図書館の机に座り、複数の辞書を引いていた。『義』について、辞書を引き、細部までも深慮したかった。

 ある辞書には、

『人としてふみ行うべき道。利欲を捨て、道理にしたがって行動すること。「義人」「信義」』

 ある辞書には、

『儒教における五常(仁・義・礼・智・信)の一。人のおこないが道徳・倫理にかなっていること』 

 との記載がある。大輔は辞書を閉じ、腕組みをして黙考する。初めて『義』の文字を目にした時との感覚が違う。吉田のいう通り、千差万別、様々な解釈が可能だ。田園風景の田舎から、上京し、知見が広がったのだろうか。それとも、狭まったのだろうか。

「おい。何、難しい顔をしているんだ」

 大輔の隣に、健斗が座った。健斗の髪の色が、稲穂のような金髪に染まっていた。半夏生だからだろうか。

「『義』について考えているんだ」

「何? ぎ?」

「『義』だ。正義や大義で使われている『義』についてさ」

「ふーん。それで、君の求める解答は見つかったのかい?」

「言葉は理解出来た。だが、それが何なのかは、分からずじまい。以前はもっとすんなりと理解できたんだけれどなあ。歳を取ってしまったかなあ。分からない」

「それは、そうだろう。そんな古臭い文字なんて調べても、何にもならないぞ。それはそうと、経済学のレポート終わった?」

「ああ。何とかね」

「見せてくれよ。参考にしたいから」

 大輔は鞄からレポートを取り出し、健斗の前に置いた。健斗は礼を言って、大輔のレポートを見ながら、自分のレポートに書き足していった。

「辞書を返却してくる」

 大輔は立ち上がり、机から離れた。

 夏休みを控えたテスト期間中の図書館は、多くの学生で賑わい騒がしい。大輔はテーブルに向かっている一人一人の表情を眺めながら、通路を進む。ある人は複数の文献と睨めっこしている。ある人はヘッドフォンをつけて、頭を小刻みに動かしている。ある人は携帯電話を凝視して、窮屈な表情を浮かべている。大輔は辞書を棚に返却し、彼らの表情を見続けながら、席に戻る。

 健斗は大輔のレポートを端に置き、文庫本を開いていた。

「終わった?」

「ああ、ありがとう。助かったよ。これで、経済学の単位も大丈夫だろう。なあ、大輔は夏休み何か用事あるの?」

「特にない。健斗は?」

「そうだなあ。女の子と遊ぶくらいかな。アルバイトもしていないしなあ」

「女の子か。健斗の生きがいは、女の子なんだな」

「ああ。そうだ、一緒に旅行に行くか? 大輔もアルバイトしていないことだしさ」

「どこに?」

「どこでも良い。そうだ、大輔の実家に行こう。海が近いんだろ?」

「海もあるし、森もある」

「浜辺もある?」

「ある。少し遠いけれどな」

「そこにしよう。女の子を狩りに行こう。こんな暑い季節に、むさ苦しい東京にいる必要はないさ」

 大輔は空笑いし、レポートを鞄に収めた。女に興味がないが、実家へ帰るには好都合だ。二人なら、長旅も退屈しないだろう。

「じゃあ、また予定を擦り合わせよう。フランス語のテストに行ってくるな」

 健斗は大輔の背中を叩き、軽快に去っていった。

 夏休みが迫っているが、小学生の時に抱いた、澄み渡るような開放感はなかった。残ったテストやレポートの提出が、気掛かりなわけではない。口にしてしまった『義』の一文字が、自縄自縛しているのだろうか。

 大輔は立ち上がり、図書館を出た。広場に鬱蒼と茂る芝生が、夏の香りを一層濃くしていた。学舎の日陰には、カフェオレ片手に談話する多くの学生たちが座っている。学生たちのポロシャツやスカートから肌が淫靡に露出し、互いの性欲を刺激し合っている。学生たちを見ていると、喉が乾いてきた。自動販売機で水を買い、学生の影に潜むように、芝生に腰を下ろして胡座をかいた。すると、夏風に乗り、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 遥香の声だった。大輔のすこし後ろに座っていた。大輔は鞄からレポートを取り出して、背中に伝わる声を聞きつつ、真剣な目差しを作った。

「ねえ、夏休みに海外へ行こうよ」

「遥香は、テニスサークルの休みを取れるの?」

 遥香は見知らぬ男と話している。

「うん。オフがあるから大丈夫だよ。南の島へ行きたいなあ。透き通った海で泳ぎたい。そうだ、グアムに行ってみたなあ」

「グアム。良いところだね。ねえ、遥香は、どんな水着を着るの?」

「やだー。エッチなんだから。もう」

 大輔は瞼を開いた。唾棄すべき遥香の嬌声が、暗澹たる感情を更に逆なでする。背伸びしつつ、横目で彼女らをちらりと見ると、二人は指先を絡めていた。若い男女が手を握ろうが、遊蕩し肉体を舐め合おうが、別れた身にとっては関係ないはずだ。だが、耳障りであり、目障りだ。急に喉元が熱くなり、ペットボトルの水を一気に飲み干した。足元に生える芝生をむしり取り、二人に向かって投げ飛ばしたったが、無数の尻を支える芝生に慈しみを感じ、レポートを戻して立ち上がった。姿を隠すように、その場を離れた。遥香と男は、二人の世界を甘く肥やし続けた。

 大輔はレポートを教授に渡し、トレーニングルームに駆け込んだ。苛立つ肉体を酷使し、吹き出る汗と共に、目に入ってしまった遥香たちの記憶を薄めつつ、懸命にトレーニングマシーンを動かした。

「君君、元にあった場所に戻して貰わないと、困りますよ。トレーニングルームは、君だけの場所ではないからね」

 中年のインストラクターが、大輔に注意した。彼は大輔が誤って置いたダンベル、正しい場所に置き直す。

「すみません」

 大輔は頭を下げ、ランニングマシーンに移動した。踏んだり蹴ったりで、気分が晴れやしない。心が悶々とし、走る速度を徐々に上げてゆく。足元のベルトが回り続けて、工業製品らしい焦慮もなく苦渋もない単一の音を吐き出しながら、大輔の足裏を擦り減らしてゆく。このまま走り続けて、一体どこに向かうのだろう。目の前を睨むと、ガラス越しに、変哲もない灰色のコンクリート塀が見える。体育館の壁だ。全力で走り続けても、決して届かない塀に益々嫌気が差してきた。

 びっしょりと汗を掻いたが、気分爽快とも言えずに、シャワー浴びてトレーニングルームを後にした。

 自宅へ帰ろうと、大学脇の狭い歩道を歩いた。吉田に会いたくなったが、暫く休戦、と聞いていたため、地下施設へ入ることは出来ない。吉田のマンションはうろ覚えで、たとえ新宿の街へ行ったとしても探し出せないだろう。自宅へも、足が進まない。行き先を考えながら立っていると、日差しが強く、汗が噴き出してきた。なんて街だ。空気が淀んでいる。

大輔は人のいない場所を求め、電車へ飛び乗った。



続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。