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即身仏を見に行こう    両界山横蔵寺(ミイラ)  岐阜

こんにちは。

色々なものに興味を持っています。文学であり、自然であり、宇宙であり、そして人間であり。

生命が永遠でない以上は、肉体は滅びます。生者必滅とは、まさに言葉通り。自分がどのように死んでゆくなんて、運命ですから変えられませんが想像するのは少々難儀です。
しかし、自ら死を選んだ人がいます。簡易的に死と書きましたが、決して死ではなく、入定です。

入定とは、

後世、断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命してそのままミイラ化する、いわゆる「即身仏」となる行為も、空海の入定信仰にあやかって俗に「入定」と呼ばれるようになった。しかし、それは真言密教の教義に由来するものではなく民間信仰の領域であり、空海の入定信仰とは本質的に異なるものである。

とあります。

一般人になせるものではありません。決して真似されないように注意喚起いたします。飽食の時代、多少の断食は健康に良いかもしれませんが。

先日、岐阜にあるとある寺にお参りに行きました。
両界山横蔵寺です。
横蔵寺は、伝教大師が自作の薬師如来を祠った寺であり、比叡山の薬師如来と同じ木から作ったと言われます。

開宗 天台宗
開山 伝教大師 延暦二十年(801)
桓武天皇の勅願寺 

両界山横蔵寺
両界山横蔵寺


両界山横蔵寺


紅葉は朱色に色づき始め、秋空も高く、非常に心地よい空間でした。
もう少し時期を遅らせれば、紅葉祭りを見ることができたみたいです。少し、残念。

整備された道を進むと、即身仏が安置されている建物があります。

両界山横蔵寺



妙心上人の舎利仏(ミイラ)
妙心上人は天明元年(1781)に横蔵に生まれました。両親の没後、仏道修行のため巡礼の旅に出て、西国、坂東、秩父の三十三ヶ所、四国八十八ヶ所を巡り、やがて信濃の善光寺の万善堂(大勧進)で受戒されました。その後、富士山に登り、自ら富士大行者と称し、富士講の先達と勤めました。山梨の都留郡鹿留村に住し、御正体山にも登りましたが、文化十二年(1815、或いは文化十四年)御正体山の洞窟で断食し、入定されたのであります。三月二十九日(或いは三月二十四日)のことと云います。上人の遺体は村人の手によって祠られていましたが、明治の初め山梨県庁へ移され、明治十三年天皇行幸の際、天覧に供されたと云います。これが縁で明治二十三年出生地の横蔵寺に祠られることになったのであります。全く人工の手を施すこと無く、現在に至っている訳であり、上人の信仰の厚さを物語っているのであります。現在も自然のまま舎利堂に安置されております。


パンフレット記載原文。

単純計算しますと、三十四歳の時に入定されたことになります。花子出版の私と同じ年齢です・・・。
妙心上人の舎利仏を拝謁する際、館内の方が妙心上人の生涯を吹き込んだ音声テープを再生してくださいます。そこで、不確かなのですが、大日如来からのお呼びがかかったと感じて入定された、お聞きしました。確か、大日如来だったはず。相違があればすみません。
いずれにしても、現代人にはない価値観と精神性、そして霊的なものをもっておられ、命を自ら断たれたのであります。断たれたというのも、語弊があるかもしれません。価値観が違うのですから。
江戸時代ですから、世間一般的にいうと鎖国をして安寧秩序な時代だったでしょう。しかし、妙心上人は入定を決意。考えさせられます。


秋の夜長、読書の傍ら彼是と思いを馳せるいい機会となりました。

花子出版  倉岡


文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。