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誤用と伏線について考える

 目に入れても痛くない。
 そんな表現がある。

 近頃、SNSなどの影響なのか、
「一生食べていられる」
「神ってる」
「秒でバレた」
 などなど、やたら大袈裟な表現が目立つようになった。
 オーバーな言い回しをするほうが、テンションも上がって、会話が楽しいのだろう。

 先程、冒頭で記した
 目に入れても痛くない。
 は、そんな過剰表現の元祖のような気もする。

 常識的に考えて、どんなに小さくとも、幼子をぐりぐり目に入れたら痛いに決まっている。しかし、
 その常識すら吹き飛んでしまうくらい可愛いくてたまらない!
 と、この言葉は主張しているのだ。止めどなく溢れる思いというのは、人を過剰表現に誘うものらしい。

 しかしこの言葉、可愛ければ何にでも使っていいわけではない。
 推しのアイドルが、どんなに可愛いかろうとも、
 目に入れても痛くない。
 ということはできない。なぜならば、推しのアイドルは、アイドルとして活躍できるほどに成長した人間で、幼子ではないからだ。

 ここで、
 目に入れても痛くない。
 の意味を改めてみてみたい。

 目に入れても痛くない
 
かわいくてかわいくてたまらないさま。わが子や孫を溺愛するさまなどのたとえ。

ことわざを知る辞典より

 ちなみにこれは、現時点での意味である。
 もし、今後「目に入れても痛くない」を推しのアイドルに対して使う人たちが増え、一般化されれば、誤用でなくなる可能性もある。
 言葉は生き物だ。
 使われ方が変化すれば、意味もそれに従うようになる。
 だが、今、そういう使い方をしたら、完全に誤用と思われてしまうのだ。

 先日私は、6000文字ほどの短編小説をnoteに投稿した。

 未読の方もいらっしゃるかもしれないので、一応あらすじを……。

 とある男が、可愛らしい美少女が描かれたポスターに目を奪われる。しかもその美少女は実在する人物で、バスの新人運転手、乗合春のりあいはるをモデルに描かれたものだった。
 男は乗合春のりあいはるに会うために、彼女の運転する夜行バスに乗ることを決める。

 ここまでが序盤のあらすじだ。
 この物語の中で私は、主人公が実物の乗合春に会った感動を表す言葉として、こういう一文を小説の中に用いている。

 直紀(主人公の男)は運転席の傍近くに陣取りながら、目の中に入れても痛くない、という言葉はこの子のためにあるのだと、強く実感したのだった。

 おや?
 引っかかった方が多数いらっしゃることだろう。
 そうなんです。ここだけ見たら、これは誤用。
 間違った表現だ。

 だが、こう書いたからには、作者なりの意図がある。

 詳細は是非、実際の作品を読んでいただきたいのだが、オチを言わないと話を進められないので、思い切ってオチを言ってしまおう。

 この主人公の男。実は新人運転手、乗合春の実父なのだ。

 つまり、目に入れても痛くないという表現を、私は伏線のひとつとして用いたのである。

 しかし、投稿してから私は考えた。

   果たして、こういう伏線の張り方してもいいものだろうか……。

 こうしてネット上にエッセイや小説などを投稿していると、誤用や誤字、内容に間違いがないかを気にするようにしている。
 それでも、何度も推敲し、もう大丈夫と思って、投稿ボタンを押した翌日に「あっ!」という、うっかりがあるのだから、本当に恐ろしい。

 それほどまでに誤用を恐れていながら、私は誤用ととられる表現を用いて伏線を張った。リスクの高い書き方をしてしまったとも言える。

 これが信用のある本業の作家ならまだしも、出版経験のないアマチュアの私が、序盤で誤用を思わせる伏線を張ってしまうと、

   あ、これ、誤用だな。

 と思われ、

   こんな簡単な間違いをするなんて、こいつ大した事ないな。

 と読者を興ざめさせてしまい、その先を読んでもらえない可能性がある。

 長編小説だったら、こういった書き方はしなかったと思うのだが、短編読み切りのサイズだからこそ、思いつくままに書いてしまった。

 最後まで読んで、
「ああ、あれは伏線だったのね」
 と許していただける読者の方もいれば、
「誤用と思わせてまで、こんな伏線張る必要があるのか」
 と疑問に思われる方もいらっしゃるだろう。

 でも、一番怖いのは、
   これは誤用だ!
 と見切りをつけられて、最後まで読んでもらえない上に、簡単な間違いを犯す書き手だという悪印象を与えてしまうことだ。

 でも、それを恐れすぎて、こういう書き方をしてみようと思ったことに挑戦できず、手が縮こまるのも怖い。

 ありがちで拙いアイデアだったとしても、思いついたのだからやってみたい、書いてみたい、と思ってしまうのは、書き手の性のようなものだ。

 私はその欲求に従い、今回「えいっ!」という気持ちでやってみたのだが、それが正解だったのかどうかは、恥ずかしながら今も明確な答えが出せていない。

 作品の中身に間違いがないか、ということに重点を置きすぎると、一行も書けなくなりそうな気がする。
 思い込みで間違っているところがあったらどうしよう……。
 などと考え込むと、書き終えたとしても、投稿ボタンを押せなくなる。

 投稿ボタンを押すには、思い切りも必要だ。私は今回思い切ってみたが、それが正解だったのかどうかと考え始めると不安になる。恥ずかしながら、体は大きいくせに、私はノミの心臓なのである。

 きちんとした答えに行きついたら、下書きに戻したり、作品に手を入れたりするかもしれない。でも今は、答えが出ていないのでそのままにしている。もしかしたら、そのままにしているということが、現時点での答えなのかもしれない。

 ぽつぽつ物を書き、投稿した後でもなお、こういうことをいちいち立ち止まって考えるのは、とても大事なことだと思う。
 考えた結果、やっぱりあれはよくなかったな、と後から気づいたとしても、思い切って書いてみたことを後悔せず、過去の自分に何が足りなかったのか、そのときにもう一度考えてみたい。
 今はそんなふうに思っている。


 久々に小説を投稿してみて、色々考えてしまいました。誰かに読んでいただき、コメントなどの反応に触れることで、自分の中に
「おや?」
 ということを見つけ、考えることができます。作品に触れていただけるのは本当にありがたいことです。
 基本的に知識不足の穴だらけの人間ですが、穴が空いているくらいがかえって風通しがいいと強がって開き直りつつ、ぽつぽつやっていくしかないのかもしれません。
 今回、作品を書くきっかけになった企画を立ち上げてくださった豆島圭さんにも、改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
 お読みいただき、ありがとうございました。

  

 

 


 
 


 

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