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エリザベス1世へのお願い

 夫に話しかけられ、私はギクッ!とした。
 別に隠し事がバレて動揺したわけではない。普段は、トイレの電気を消し忘れたり、入浴後、お風呂の換気扇を回し忘れたことを、夫にとがめられとき、心理的にギクッとする。だが、今回は夫の声に反応し、首をぐいっと伸ばした瞬間、

「あぁぁ!!」

 と、体感的にギクッとしたのである。

「今、首がギクッとした。ピキーンってした!」

 首を押さえながら夫に言うと、あーあ、やっちゃったね、と半笑いである。ぎっくり腰というのは数回やったことがあるが、首ははじめてのことだ。しばらくは、何となく痛いなぁ、くらいで過ごしていたのだが、パソコンに向かっていたら、何となく異変に気づき始めた。
 頭がボーッとしてきたのである。
 首の痛みからくる、独特なボンヤリ感を味わいながら、私は中学時代のとある出来事を思い出していた。


 その日の体育は、前半は卓球、後半はジャンプしながら、でんぐり返しをするという私にとって大変難易度の高い授業が行われた。
 このジャンプでんぐり返し。正式名称を「飛び込み前転」というらしい。


 飛び込み前転の説明をする先生を見ながら、私は動揺を隠せなかった。クラスメイトをマットの中心に正座させ、背中を丸め頭を抱えた状態のところを飛び越え、前転するように指示されたからだ。言うなれば、人間が置き石となった、障害物でんぐり返しである。

 幼い頃から私は、運動神経とは無縁の生活を送ってきた。
 走れば、自分の横を多くの人が追い抜いて行き、跳び箱をやらせれば、どれだけ低くとも、飛び越えずに堂々と座ってみせる。
 ボールが飛んでくれば、高確率で突き指をし、野球をして、運良くボールがバットに当たっても、三塁側へと走っていくような人間なのだ。

 そんな運動神経皆無の私が、人間を障害物にして、飛び込んで前転するなど、どう考えても至難の業だ。
 スパイダーマンのように、今すぐ蜘蛛にでも噛まれない限り、そんなアグレッシブな技が私にできるわけがない。しかも、飛び越えなければならない障害物は、生ける人なのである。

 クラスメイトに怪我をさせたらどうしよう……。

 不安と恐怖が胸を締め付けた。
 私は、運動神経はないが重量はたっぷりある。その重量感と迫力は、伊勢シーパラダイスで見た、セイウチのひまわりちゃんに引けを取らない。


 ひまわりちゃんは可愛いが、残念ながら私はただ重いだけだ。こんな私が、置き石となったクラスメイトに向かってジャンプで体当りして、結果、下敷きにしてしまったら、それこそ大惨事になりかねない。私は青ざめた。

 しかし、そんな私の気持ちにお構いなしで、飛び込み前転の実技が始まってしまった。先生のお手本を見ただけで、クラスメイトたちは、飛び込み前転を難なくクリアしていく。もはや忍者だ。

 私は、皆の技を盗むべく、目を皿のようにして見ていたものの、ジャンプするタイミングや、前転するタイミングがわからぬまま、とうとう自分の番になってしまった。

 マットの中央で丸くなっているクラスメイト。
 目の前にいるのは、跳び箱やボールではなく生きた人間だ。絶対に、怪我をさせてはならない。

 そんなプレッシャーを抱えながら、私はマットに向かってジャンプした。
 緊張で腕が固まっていたのだろう。手よりも先に、自分の後頭部で着地してしまった。首筋が真下になり、脳天が胸にめり込み、でっかい尻が天を仰ぐと、私はダンゴムシのようにひっくり返ったまま動けなくなった。

 あまりにも無様な姿に、クラスメイトからドッと笑いが起こる。
 障害物役のクラスメイトが一緒に笑っているのを横目で見て、怪我をさせずに済んだことに、とにかくホッとした。
 だが、どうにもこうにも起き上がれない。
「誰か起こして~」
 私が笑いながら言うと、友達が起こしてくれた。無事、実技を終えた安堵感と、クラスメイトたちの和やかな笑い声に包まれながら、過酷な体育の授業はこうして幕を閉じたのである。

 帰宅後、「何だか頭がボーッとするなぁ」と、笑い話のつもりで母に事の顛末を話すと、その顔はみるみる青ざめていき、翌日、私は問答無用で大学病院に連れて行かれた。レントゲンなどを撮り、診療してもらった結果、

【頚椎(けいつい)の捻挫】

 との診断を受け、絶対安静のため、私は数日間、学校を欠席することになってしまった。

 久々の登校後、クラスメイトたちからは「笑ってごめんね」と謝罪され、体育の先生は、顔をこわばらせて、
「出来ない実技の時は、無理せず先生に言ってくれ……」
 と嘆願された。先生もクラスメイトも皆、なぜかとても優しかったのを覚えている。

 それに引き換え、あれから数十年が経過した今、首をギクッとしてピキーンとした私の横で、

 ねぇねぇ、フクロウのマネしてよ!
 首をくるくる回してフクロウのマネしてよ!

 と、夫がうるさい。今、私はエリザベス1世の肖像画のような状態で座っている。

 そうでもしないと、二度目のピキーンにお見舞いされそうで恐ろしい。夫の望みを叶えるべく、フクロウみたいに縦横無尽に首を回したら、私は、再起不能になるだろう。

 できれば、エリザベス1世にお願いして、あの首に巻いてる白いやつを、コルセット代わりにお借りしたいくらいである。






その他の夫とのエピソードはこちらのマガジンにまとめています。


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