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秋の名人芸

 虫が鳴いている。
 毎年コオロギや鈴虫の鳴き声を聞いては来たが、今年の鳴きっぷりは凄い。しかもかなりの至近距離で鳴いている。その姿を確認したわけではないが、どうやら寝室の窓の真裏にいるらしい。そこは草木も生えない殺風景なベランダで、虫にとって居心地がいいとは思えないような場所である。

 午前0時を回ると、コオロギの音色は澄み切って、その美しさを増してくる。その声に耳を傾けながら夫婦で晩酌をしていた。
「今日もいい声で鳴くねぇ」
 私がそう言うと夫が、
「雑草も生えてないのに、どこで鳴いてるんだろうね」
 と不思議そうに話す。
「うちのベランダを秘密基地にでもしてるのかねぇ」
 なんて言ってみたものの、あんなに鳴いていたら、秘密がだだ漏れである。

「もしかしたら、コオロギじゃなくて、猫八がいるんじゃないの?」

 夫がそんなことを言い出した。
 猫八とは、動物鳴きまねなどの芸で知られる江戸家猫八のことである。脳裏に、鬼平犯科帳で相模の彦十役を演じていた三代目と、黒髪にスーツ姿の四代目の顔が浮かんでくる。親子ともに、コオロギや鈴虫の鳴き真似が大の得意であった。

 随分昔のことになるが、四代目が、電話で鈴虫の鳴き真似をしてみたら、その声が相手に全く聞こえなかったという話をしているのを、テレビで見た記憶がある。
 電話は人の声の高さに合わせて約300~3400ヘルツ間の音が伝わるようにできているらしい。鈴虫の鳴き声は約4500ヘルツもあるので、鈴虫の鳴き声を電話を通して聞くことはできない。
 つまりその声帯模写は、虫の音そのものだったのだ。

「いくらなんでもきれいに鳴きすぎだよ。やっぱり外に猫八がいるんだよ」

 夫はまだそんなことを言っている。
 三代目も四代目も既にこの世の人ではない。生粋の芸人ゆえ、肉体から離れた存在になった今、コオロギに姿を変えるくらいはお茶の子さいさいだろう。しかしだからといって、コオロギに扮して、我が家に訪れる義理はない。

 それでもこの音色がひょっとして江戸家猫八じゃないかと思ってしまうのは、かつての名人芸がこの耳に残っているからなのだ。私は夫の冗談に乗ってみるつもりで、

「猫八さん?」

 と、窓に向かって声をかけてみた。
 すると、それまで澄んだ声を聞かせてくれたコオロギが、ピタリと鳴くのをやめてしまった。







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