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彼の噛みあと 第6話

それからまた2日間、彼からの連絡は無かった。
バスルームにある大きな姿見を見ると、両方の胸と腿に、彼に噛まれた所がアザになって残っている。園子はそのアザを見るたびに、彼のことを思い出して恋しくなっていた。
しかし、園子は彼からの連絡を待ち焦がれてはいたが、「次はもっと苛めるから覚悟しておいて」と言われたので、会いたいような、会うのが怖いような気もしている。
(どんなことをされるのかしら‥‥)
あの時、彼に噛まれたことも頬を叩かれたことも、自分でも驚くほど感じてしまったが、それ以上のことをされても自分が受け入れられるか自信がなかった。


彼の部屋は園子たちと同じ10階だというが、廊下でも彼に会うことは無かった。
でも、今夜はフォーマルなパーティーが開かれる日だったので、ひょっとしたらそこで彼に会えるかもしれないと思い、それは密かに楽しみにしていた。
パーティーで会うなら、苛められる覚悟をしなくても彼の顔だけ見られる、と思ったのだ。


夜になり、園子と祖母は二人とも着物を着て、パーティーが開かれる場所へと向かった。
「おばあちゃまの訪問着、華やかで素敵ね」
「これ日本で着るとちょっと派手すぎるんだけどね。ここならちょうどいいと思って持ってきたの。園子もその訪問着にその帯の組み合わせは上手よ。意表を突いてるけど、よく合ってるわ」
「ありがとう」
二人でそんなことを話しながら、華やいだ雰囲気が外まで溢れ出ているホールの入り口に着くと、突然、中にいる彼の姿が目に入った。入り口からさほど遠くない所で奥さんと一緒に他の夫婦と談笑している。秘書の男性はいない様子だ。
(おじさま‥‥!)
園子は彼を見ただけで嬉しくなった。タキシードも似合ってて素敵だなと思った。
飲み物を盆に載せたウェイターからシャンパンを受け取って、また彼の方を見た時、彼が園子に気づいた。
彼はしばらく園子から目を逸らさずにいたが、夫婦の男性の方に何かを話しかけられて、会話に戻った。


「お二人とも素敵ですね」
と、園子たちに日本人夫婦の婦人の方が話しかけてきた。
「恐れ入ります。自慢の孫ですわ」
「男の方たちは、みんなお孫さんに見惚れてますよ」
「外国の方には、まだまだ着物は珍しいでしょうからね」
「珍しいだけじゃなくて、やっぱりおきれいだからよ」
と、園子の方を向いて言ってくれたので、
「ありがとうございます」
と、はにかみながら言っていた時、バッグの中でiPhoneが震える感触がした。
「ちょっと失礼いたします」
と笑顔で挨拶して祖母たちと離れ、廊下に出たところでiPhoneを開くとメールは彼からであった。
園子は驚いて、さっきまで彼がいた場所を見ると、奥さんと夫婦は3人で談笑を続けていたが、彼の姿だけ見えなかった。
件名に【今夜】とあって、本文を開くと、
【園子、すごくきれいだよ。パーティーが終わったら連絡するから、着物のままで部屋に来て。】
とあった。
園子は、さっきまで彼に会うのが怖いような気がしていたことも忘れて胸が高鳴ってしまい、
【はい。参ります。】
とすぐに返信した。
返信した後で祖母たちが話している所へ戻ったら、彼も元の場所に戻っていた。


パーティーが終わったのは23時過ぎだった。
祖母と部屋に帰る途中で、園子は
「おばあちゃま、私ちょっと酔ったからデッキで涼んでから戻るわ。おばあちゃま先に休んでて」
と祖母に言った。
彼から何時ごろに連絡が来るかはわからなかったが、祖母と一緒に部屋に戻ったら、着物を脱がないでいるのが不自然になってしまうので、彼からメールが来るまではどこかで時間を潰そうと思った。
「ええ、そうするけど、あなた気をつけるのよ」
「‥‥気をつけるって?」
「あなたが魅力的だから、目的を持って近づいて来る男がいるかもしれないわ。ま、船の中だから、夜の街を歩くような危険は無いけどね」
園子はそんな風に心配してくれる祖母に対して、ちょっと罪悪感を感じた。


(あのお部屋で待っててもいいのかな)
園子はバッグの中に入っている合鍵を取り出して眺めた。この合鍵を見るたびに、彼のことを思い出して嬉しかった。なんだかお守りのように感じられた。
その時ちょうど彼からメールが来た。
【あと30分ぐらい抜け出すまでにかかりそう。園子、行けそうなら先に部屋で待ってて。】
【はい。お部屋で待ってます。】
そう返信して、園子は部屋に向かった。

部屋に入って改めて中を見渡してみると、園子達の部屋と同じぐらいか、ちょっと広いかもしれない。
(自分の部屋以外にもう一部屋借りるなんて、普通のことなのかしら?)
とてもそうは思えない。お金だってずいぶん掛かるでしょうに‥‥と園子は何だか申し訳ないような気持ちがしつつも、こんなことを思いつく彼のロマンティックさがとても素敵に感じた。
(おじさまって本当はどういう人なんだろう?名前を検索されたら困るっていうのは、検索さえすれば色々出てくるっていうことなのかしら)
(でも‥‥名前も名乗らないっていうことは、私のことは一時的な相手として見てるんだろうな)
園子はそう思うと辛かった。
園子は彼が誰でも構わなかった。
ただ自分のことを好いていてくれれば、この先も会うことができれば、それだけで幸せなのだ。
でも彼にそんなことは望めそうにない気がして悲しい気持ちになった。


園子は、恋愛に安心感を持てた事が無い。
相手に問題があるのか、園子に足りないものがあるのか、好きになる相手を間違えているのか、‥‥多分その全部だと思うが、考え過ぎると泣きたくなって来てしまうので、もう考えるのはやめて、今は彼に会えること自体が幸せだと思うことにしよう、と考え直した。
実際、彼は空想の中で描いていた人のように園子の理想を満たしていた。
あんな素敵な人に抱きしめてもらえるだけでも嬉しい。
本当にそう思った。


‥‥と、あれこれ考えている間にドアベルが鳴った。はっとして腕時計を見ると、いつの間にか30分以上経っていて、もう深夜12時近い。
ドアスコープを覗くと彼だ。園子は思わず笑顔になってドアを開けた。
「おじさま!」
「園子、だいぶ待ったでしょう、ごめん。パーティーの会場を出たところで引っ掛かっちゃってね。バーに行く羽目になったんだ」
そう言って、蝶ネクタイを外しながら園子を抱き寄せて首筋にキスをした。
「ちゃんと香水つけてきてくれたね。ありがとう。色っぽいな」
「‥おじさまにパーティーでお会いできて嬉しかった」
「僕こそ園子の着物姿が見られて嬉しいよ。すごくきれい。男がみんなあなたを見てたから、独り占めしたくなってメールしたんだ」
園子は彼の言いようがとても嬉しくて、
「おじさまって‥‥どうしてそんなに褒めてくださるの」
「いちいち口にしないだけで褒めたい所はまだまだたくさんあるよ。たとえばその腕時計ね、文字盤を内側にして付けてるでしょう?だから時間を見る時の仕草が可憐になってる。最近はみんな文字盤を外側にして付けるから、そんな仕草は滅多に見かけないもの。パーティーの時も園子が時計を見てる姿が素敵だと思って見てたんだ」
園子は実際、いつも意識して文字盤を内側に付けていた。昔の映画女優の付け方を真似していたのだが、彼がそれを見ていて褒めてくれたことを喜んだ。
「‥‥すごく嬉しい」
「着物は自分で着られるの?」
「ええ」
「それも褒めたいな。脱がせても平気だからね」
彼はそう言って、園子を抱き寄せてキスをしてきた。




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