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彼の噛みあと 第9話

乗船してから7日目、初めての寄港があった。
カナリア諸島に属するその島の海は、明るい日差しに照らされて青とも緑ともいえないような美しい色をしていた。街並みは園子が思っていたよりも賑やかで、ずっと船内の光景を見慣れていた目に新鮮な楽しみを与えた。
「気持ちの良い島だこと。半日じゃ足りないぐらいね」
祖母も同じ感想だった。
夕方には船に戻るスケジュールなので、二人はあまり遠くへは行かず、近くのレストランで食事したり街中で買い物などをして過ごすことにした。


気持ちの良いテラス席で美味しいシーフード料理を食べた後、リゾート地らしい通りの両脇に立ち並ぶ洒落た店々を見ながら歩いている時に、園子はだいぶ向こうの方から彼と奥さんが歩いて来るのに気づいた。
もしかしたらどこかでばったり会えるかもしれないとは思っていたし、会えたら嬉しいと思っていたが、いざ会ってみると当然のことながら彼の隣には奥さんがいた。


彼は奥さんと手をつないで、笑顔で会話をしている。
園子には気づいていない。
だんだん距離が縮まって来たので、彼もそろそろ園子に気づく頃だが、園子はもう彼を見るのをやめた。
全く顔色も変えずに彼達とすれ違った。


園子は、こういうことが得意だった。
以前、会社の別の部署の上司と付き合っていた時も、偶然社内で顔を合わせることがあっても眉ひとつ動かさなかった。男女の噂の回るのが非常に早い会社であったが、園子がその上司との仲を疑われたことは一度もなく、むしろ全く違う男と噂を立てられるぐらい、周りの人間の見当を外れさせていた。
それは、既婚者であった彼にとっては都合が良かっただろうが、園子は胸の内で常に淋しく悲しい思いを抱えていた。
周りに悟られぬよう平然と振る舞える自分に、いつも嫌悪感を覚えていた。


その頃のことがよみがえり、苦い気持ちになっていると、
「今の夫婦、同じ船の人ね」
と祖母が言ったので、ちょっとドキッとした。
「そうだった?」
「ええ、奥さんの方と会釈したわ」
「そう。気づかなかった」
「男の人の方は見たことがあるような気がするけど‥誰だったかしら」
「お知り合い?」
「ううん、そういうんじゃなくて‥、ま、いいわ。その内思い出すかもしれない」



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