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葉巻と、それを吸う愛しい人 episode-13

 マリアが、ソファに横になって仕事の帰りがけに買った最新号のVOGUEを眺めていると、不意に電話が鳴った。
(おじさま?!)
と一瞬期待したが、この4、5日は全然暇がないと言っていたから絶対に違うはずだ。その4、5日が終わったら電話するよと言われているのだ。だから多分これはジェシーだと思って気軽に受話器を取った。
「ハロウ?」
「…あー、えっとマリア?」
「……キース?」
どうしよう、何も断りの言葉を考えていないのに無防備に電話に出てしまった、とマリアは内心慌てつつも、普通の調子で会話を進めた。
「よかった、覚えててくれて」
「あはは、まさか。まだそんなに経ってないじゃない」
「いや、この前僕はうまく喋れなかったからさ」
「そんなことないわ。ジェシーも私も楽しかったわよ」
「…ジェシーとデニスは仲良さそうだったね」
「ほんとね。いつもノロケ話聞かされてたけど、実際に2人でいるところを見たら安心したわ。お似合いだった」
「僕もデニスからジェシーのノロケ話を山ほど聞かされてるよ」
「あはは」
「…マリア、よかったらまた食事に行かない?今度は2人で」
どうしようどうしよう、何て言って断ればいいかしら、とマリアが言葉を探していると、
「この前の晩はさ、デニスに女の子を紹介するからって呼ばれたんだけど、実を言うとあんまり期待してなかったんだ。だけど会ってみたら君がすごく素敵だったから…また会ってゆっくり話してみたいなと思って」
「…ありがとう。でも、あの、私…」
「だめ?」
「ええ、…あの…」
「ひょっとしてもう好きな人がいる?」
マリアはちょっとドキッとしたが、平静を装って、
「ううん、そういうことじゃないんだけど、…ちょっと男の人と付き合う気になれなくって」
「…何か嫌な思い出があるとか?」
「うーん…そんなことも無いんだけどね。何となく…」
「でもじゃあ、僕自身のことを嫌いってわけじゃないんだね?」
「ええ、そんなこと…」
「じゃあそれでいいよ。とりあえず僕のことは保留にしておいて。実は僕も3年ぐらい彼女も好きな子もいないんだ。久々に素敵な子に会ったと思ったのに、いきなり振られたらつらいからさ。保留だと思えば気が楽だよ」
「でも…それじゃあなたの時間がもったいないと思うわ」
マリアは大学時代の別れ話と同じことを言った。本当にそう思うのだ。
「大丈夫だよ。まだ若いからね」
キースが冗談ぽく言ったので、マリアはちょっと笑った。
「…あー緊張した。本当はもっと早く電話したかったんだけど、うまく話せるか自信なくてさ。ずっと迷ってたんだけど、これ以上日にちが空いたら忘れられちゃうなと思って勇気出して掛けたんだ」
「そこまで忘れっぽくないわ、私」
「あはは。じゃあまたね。…またねって言っておくよ」
そう言ってキースは電話を切った。

 マリアは、はっきり断りきれず自己嫌悪になった。キースの感じが良かっただけに、余計悪いことをしたと思った。
学生時代に付き合った相手とも、自分が迷っているなら最初から受け入れなければよかったのに、はっきりしない態度でずるずる進んでしまったのが悪かったのだ。相手に不誠実だったと、今では反省している。
 だから、キースにも早くちゃんと断らなければいけないと思った。

***

 その数日後、フランクと食事をした時に、マリアはキースから電話がかかってきた話をした。
「…それで私、うまく断れなくて自己嫌悪なの」
「保留ねえ」
フランクは、だから言わんこっちゃ無いと思った。あれっきりで終わるわけがないと思っていたのだ。マリアは断るつもりにせよ、キースの方はまだチャンスがあると思っているだろう。
「次に電話が掛かってきたら絶対にはっきり断らなきゃ」
とマリアは決心したような口調で言う。
フランクは、マリアの様子を見ていると甚だ危うく感じる。普通の男だったらマリアの雰囲気は押していいサインに見えるだろう。電話だったからいいようなものの、実際に会ってマリアがこの調子だったら、それこそ肩を抱いてキスしたくなるだろうと思った。フランクは乱れそうになる気分を落ち着かせるように新しい葉巻に火をつけた。
「…こういうことはよくあるのかい?」
煙を吐きながらマリアに聞く。
「こういうこと?」
「その、誰かから付き合ってくれって言われるようなことはさ」
「んー……たまに」
「断る時は何て言って断ってるんだい?」
「…もし誰かと付き合ってる時だったらそう言ったり、あんまり本気で言ってなさそうな人だったら割とバシッと断っちゃったりするんだけど。あなたのことそんな風に見られないから無理だわ、とか」
「キースは本気っぽいから言いにくいのかい?」
「本気…かどうかわかんないけど、何だか真面目そうだから…」
「………」
「前に会社の人に言われた時は、今他に好きな人がいるからって言って断ったの。もうおじさまのことが好きだったから…。でもキースには好きな人がいるって言うわけにもいかないと思って」
「なんで?」
「もしジェシーに伝わったら絶対に、誰のこと?って聞かれちゃうもの」
「……会社の人に言われたってのは最近の話なのかい?」
「ううん…もう1年ぐらい前かな」
「同僚?」
「ええ、同い年の人」
「会社でもお前さんはモテるだろうからね」
「…そんなことないわ。大体みんな冗談めかして誘ってくるだけだから」
「上司も?」
「……上司には…すごく怖い思いをしたことがあったの」
「どんな?」
つい尋問のように聞いてしまう。
「会社に入りたての頃に食事に誘われて…新人とは個別に食事をして理解を深めるようにしてるって言われて…」
フランクは聞いているだけで嫌な気分になった。そんな白々しい理屈をつけて誘うなんて下心が見え透いている。
「なんか高級そうな日本料理の天ぷらのお店に連れて行かれたんだけど、和風の個室に通されてね。まず大広間に行って天ぷらを食べて、その後ここに戻ってきたら日本式の布団が敷いてあるんだよって言われたの。私が驚いた顔をしたらすぐに冗談冗談って笑ってたけど」
フランクは胸がざわつくぐらい腹が立ち、頭を振って葉巻を強く噛んだ。
「私怖くなっちゃって、もしも大広間から戻ってきて本当に布団が敷いてあったら、バッグもお財布も何もいらないから走って逃げようって思ったわ」
「敷いてあったのかい?」
「ううん、敷いてなかった。でもなんかそのお店全体が、今思えばそういうことを想定してるような雰囲気だった気がして…。その経験が怖すぎて、それ以来あんまり知らない人と2人きりで食事に行くのは絶対にやめようと思ったの」
「その上司ってまだいるのかい?」
「ううん、その後シカゴかどこかに異動になったから」
フランクはその男に対する腹立ちがおさまらない。実際にその店は客の言いつけで布団を用意するような店だったのだろう。日本料理の店にはそういう所があると聞いている。多分男はマリアの反応を見てから判断しようとしたのだろう。フランクは、もしこれでマリアが実際にその布団に押し倒されたなどという話だったら冷静に聞けた気がしない。
「……お前さんの話聞いてると心配になってくるよ。いつ周りの連中が……」
と言い掛けたが、葉巻を吸って頭を振った。
「まあ、妬いてるだけだがね」
「……こういう話も妬いてくれるの?」
「妬くさ、そりゃ」
と思わず強い口調で言ってしまってから自分で嫌になった。マリアと付き合うようになってから、自分がこんなに嫉妬深いと知って我ながら嫌悪を感じる。今の話には出て来なかったが、この前マリアを会社に送って行った時にマリアの背中を抱いていた男だって、マリアのことをどう思っているかわかったものじゃないと思っている。
しかし、こんな風にマリアに対する独占欲が日に日に高まってしまうのは本当に厄介で、身勝手な感情だという自覚があるだけに精神的にキツかった。

 しかしマリアにとっては、フランクの言ってくれたことがとても嬉しかった。顔を赤くして、
「…嬉しい。すごく…」
と小さい声で言った。
フランクは自分ばかりが嫉妬しているのを後ろめたく感じ、普段は触れないようにしているが常に気になっていること   ローズのことを聞いた。
「……お前さんは…ロージーのことをどう思ってるんだい?」
マリアの顔が曇った。
「私?……」
「大体、あたしはお前さんのことを妬ける立場じゃないのはわかってるんだ」
フランクは肩をすくめる。
「……私も本当は…おばさまにすごくやきもち妬いてるの。おばさまは毎日おじさまに会えて…おかえりなさいってキスしてるんだろうな、とか……今頃おばさまはおじさまと一緒のベッドで寝てるんだろうな……とか…」
マリアは普段、考えないように考えないようにしていることを口にしたら思わず涙が出てきてしまった。両手の指先で涙を拭いながら、
「でも……でも私、おばさまのことは大好きなの。本当よ。優しくて明るくて、人としても女の人としても尊敬してるの。だから……だから、私の方が悪いことしてるのにやきもち妬くなんてとんでもないって思って…」
マリアが泣きながら言うのを聞いて、フランクはマリアの頭を抱き寄せた。
「ごめん。……ごめんよ。泣かせるつもりで聞いたんじゃなかったんだ」

 実はフランクは、マリアと会うようになってからもローズとセックスをしている。月に1、2回ぐらいではあるが、それはここ10年以上変わらないことだし、世の中の夫婦も大方そんなものだろうとは思う。
しかし自分が最悪なのは、マリアの事を思い出して欲情してしまった時に、ローズを抱くことがあるということだ。そういう時はローズに対してもマリアに対してもすまない気持ちになるし、自分への嫌悪感が半端ではない。
それに比べてマリアは別に他の男とセックスをしているわけでもない。自分がこんな感情を抱くのはアンフェアもいい所だと思う。
しかし、そうはわかっていても他の男に嫉妬して腹が立ってしまうし、マリアを独占したくなる気持ちも抑えられない。
マリアへの思いが強くなりすぎているな、と思うと我ながら危なっかしい気がする。フランクは自分の感情を持て余しながら、マリアの額にキスをし、彼女が泣きやむまで腕の中に抱いていた。

 2人には見ないふりをしていることがたくさんあった。そして時にはそれが、今日のように表に出て来てしまうのだ。お互いそれをどうにか一時的に折り合いをつけることでしのいでいる。そんな不安定さを意識しつつ、それでもお互いを愛する気持ちを止められず、甘美でありながら苦しい日々を重ねていた。


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