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彼の噛みあと 第1話

園子は、乗船の順番を待つ客で賑わうラウンジで人々を眺めていた。
ホテルのような巨大な客船なので、その人数だけでも相当なものだ。
園子のいる中2階から下を見渡しただけでも5〜600人ぐらいはいそうである。
しかもラウンジはここだけでは無いという。
全体的に落ち着いた年齢層が多く7割ぐらいは欧米人だろうか。
園子と同世代の客はほとんど見えない。


その時、園子が立っているすぐ横にあるエスカレーターを昇ってくる乗客達の中の1人の男性と目が合った。
65、6歳ぐらいだろうか、髪は豊かだが8割ぐらいが白く、仕立ての良さそうな黒っぽいスーツを着て銀縁の眼鏡を掛けている、知的な雰囲気の人である。


すごく素敵な人だなと思って見ていると、向こうも全く目をそらさずに園子を見たままエスカレーターを上がってくる。
園子は内心驚きながらも、目を合わせたままでいる。
男性はエスカレーターを上りきり、園子と目を合わせたまま園子のすぐ横を通り過ぎてから、ようやく前を向いてラウンジの奥の方へ歩いて行った。
「園子、お待ちどおさま」
園子が今の出来事について驚いていると、後ろから祖母に声を掛けられた。
「お帰りなさい。化粧室混んでたでしょう?」
「ええ本当。早く乗船して部屋で落ち着きたいわね」
これから3週間、園子は祖母と2人でこの大きな客船で船旅をするのだ。


それから2時間後、ようやく大勢の乗船を終えた客船は港を離れた。
園子は船旅自体が初めてであったが、こんなに大きいホテルのような船だとは思っていなかった。イギリスで作られたという船は、船内の装飾もクラッシックで美しかった。
「うわぁ‥素敵な部屋!」
部屋は、船の中とはいえ割とゆったりとしている。大きなツインベッドで調度品も趣味が良く、オーシャンビューを楽しめるようバルコニーにはテーブルセットが置いてある。
「気に入った?ダブルベッドならもう少し広い部屋も空いてたんだけど、この年で人と一緒に寝たら疲れちゃうから」
と祖母が言うので、
「最高だわ。こんな素敵な船に乗るのが2度目だなんて羨ましい。お供できて嬉しいわ」
「どう致しまして。あなたが3週間も暇でよかったわよ」
「私も会社辞めて本当によかったわ」
と園子は笑った。


園子は勤めていた会社の人間関係に疲れて、先月退職したばかりだった。そんな時に母方の祖母が、生きている内にもう一度船旅がしたいと言い出した。今年78歳になる祖母は40代の頃、まだ元気で存命だった祖父と旅した思い出が本当に楽しかったのだという。
しかし一人で乗るのは嫌だし、友人にも親戚にも3週間も連続で時間が取れるような人間がいなかったので迷っていたのだが、そこに園子が会社を辞めたという知らせが入り、喜んで園子を誘ってきたのだ。
園子としても、仲の良い祖母と豪華客船で旅行するなどという楽しそうな誘いを断る理由が無かった。

夕食は、カジュアルなブッフェスタイルの店から、ドレスコードのあるような落ち着いたレストランまで、いくつかの中から選べることになっていたが、初日だから豪華にやりましょうと祖母がフランス料理のレストランを予約した。
海に夕陽が落ちかけた頃、園子と祖母はドレスアップしてレストランへ向かった。祖母は華やかな色のツーピースを着ていたが「園子は肩を出したほうがいい」と言われたので、髪をアップにして、ホルターネックの背中の真ん中ぐらいまで開いたシルクシフォンのワンピースを着た。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
物静かだが感じの良い日本人の給仕に案内されてテーブルにつき、シャンパンで祖母と乾杯した時────。
さっき乗船前にエスカレーターで目が合った男性が、奥さんらしき女の人と、もう一人やや若い男性と3人で、園子たちの斜め前のテーブルに案内されて席についた。男性はちょうど園子から見える椅子に掛けた。
男性は座った瞬間に園子に気づき、また数秒間目を逸らさずに園子を見た。
園子は思わず心臓の鼓動が早くなった。

食事が運ばれ始め、祖母の思い出話を楽しく聞いている最中、ふと目をやると、また男性と目が合った。目が合った、というより園子が見た時には既に男性がこちらを見ていた。
「園子も27歳になるなんてねぇ。ちょうど京介さんが亡くなった年に産まれたんだものね」
「そうよ。おじいちゃまにも会ってみたかったわ。おばあちゃまと大恋愛だったんですもんね。結婚してずっと経ってからも二人でこんな素敵な船旅に出たりして。羨ましいわ」
園子はそう言いながら、27年前に亡くなった時50歳だった祖父よりも、あのテーブルの男性はずっと年上だろうなと思った。園子の父親よりも年上だろう。
そう思ってふと見ると、また男性と目が合った。

園子は、大学を卒業して以降、素敵だなと思う男性は2、30歳上の人ばかりだった。なぜだか自分にもよくわからないが、若い男の人には全然魅力を感じられないのだ。生理的に無理、と言ってもいいかもしれない。大学時代に一時的に付き合っていた人が最初で最後の同世代の人だった。
もしあのテーブルの男性が65歳前後だとしたら、今まで好きになったどの人よりも年が離れているなと思った。
‥‥と考えて自分でハッとした。「好きになった」なんて考えてしまっている。

その後も何度目が合ったかわからない。祖母は何も気付いていない様子だが、男性の方のテーブルの奥さんや連れらしき男性は不審に思っていないだろうかと、園子の方が心配になるぐらいだった。
しかし───園子は明らかに男性に心が惹かれてしまっているのを自覚した。

園子たちのテーブルにデザートが運ばれて来た時、男性が席を立った。他の二人はそのまま座っているので化粧室に行くのだろうか。
園子は思わず、
「おばあちゃま、途中でごめんなさい。ちょっと化粧室に行ってくるわ」
と言って席を立ち上がった。
「お化粧室はどちらですか?」
「あちらの中央階段の裏側に化粧室へ続く廊下がございますので」
と給仕の説明を受けて、クラッシックで美しい造作の中央階段の裏側へ廻ってみると───。
男性が廊下の壁に左肩をもたせかけるようにして、こちらを向いて立っていた。
明らかに園子を待っていたように見えた。園子は驚いて、
「あっ‥‥」
と思わず声を出してしまった。すると男性が園子の目をじっと見ながら微笑んで、
「来たね」
と言った。園子は更に驚いたが、本当に自分を待っていてくれたのだと思ったら嬉しくなり、心臓の鼓動が早まった。
男性はスーツの内ポケットから二つに折ったメモのようなものを出し、
「ここにメールして来て」
と言って園子に渡した。園子が何も言わずにそれを受け取ると、
「きれいなワンピースだね。あなたによく似合ってる」
と言って園子の横を通り過ぎ、そのままテーブルに戻って行ってしまった。
園子は、あまりの展開に驚いて心臓の早い鼓動が静まらない。そのまま本当に化粧室に入って、冷たい水で手を洗ってからテーブルへと戻った。

給仕が引いてくれた椅子に掛ける時に、向こうのテーブルに彼がいるのは目の端に見えてはいたが、どんな顔をしていいかわからず目を合わせられなかった。
「園子ももう珈琲飲む?」
園子が化粧室に行っている間に先に珈琲を飲んでいた祖母が、給仕に園子の分も持って来てくれるよう頼んでくれた。
「デザートもお取り替え致しますか?」
と園子の前に珈琲を置きながら給仕が聞いてくれたが、
「あ、いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
チョコレートのケーキに添えられたアイスクリームが溶けかかっていたのだが、熱くなった身体には十分冷たく感じ、美味しかった。
「‥おばあちゃま、私すごく楽しいわ。船旅って本当にロマンティックね」
園子が思わず言うと、祖母が笑って、
「これであなたも素敵な恋人と一緒ならよかったのにね。私で悪いわ」
「まさか。おばあちゃまと一緒だから余計いいのよ」
園子は、ただでさえ楽しい船旅が更にドラマティックになりそうな、胸が高鳴る気持ちで食事を終えた。





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