見出し画像

彼の噛みあと 第2話

園子と祖母はレストランを出た後バーに寄って、軽く飲んでから部屋に帰って来た。もう23時を少し過ぎている。祖母はあくびをして、
「ああ、さすがに疲れちゃったわ。私先にシャワー浴びさせてもらうわよ」
「どうぞ、もちろん」
園子はバルコニーに出て、船を前に進める壮大なエンジンの音を聞きながら、暗い海と星空を眺めた。ひんやりとした風を心地よく感じながら、備え付けられている椅子に座り、バッグからiPhoneを取り出した。
(どうしよう‥‥)
園子はもちろん彼にメールをするつもりである。でも何て打てばいいのだろう?
さっき受け取ったメモをまた開いてみる。手帳を破ったように見える紙に、走り書きだがきれいな字でメールのアドレスだけが書いてある。名前も電話番号も何も書いていない。
園子は、とりあえずメールの画面を開いて本文を打ってみた。
【先程はありがとうございました】
(ううん、違うな)
【お会いできて嬉しかったです】
(‥‥これも違うな。どうしよう)
園子があれこれ悩んで下書きを書いては消している内に、祖母がバスルームから出てきたので、iPhoneをテーブルに伏せた。
「お待ちどおさま」
「お疲れさま。私もう少ししてから浴びるから、おばあちゃま先に休んでていいわよ」
園子はバルコニーの窓を閉めて、部屋の中の窓際のソファに座りながら言った。
「ええ、そうさせてもらうわ。もう起きていられそうにない。おやすみ」
「おやすみなさい」
祖母はベッドに入って、すぐに枕元のランプも消した。
園子は、シャワーを浴びる前にとりあえずメールをしてしまおうと思った。
そして結局、件名に【園子です】と書き、本文には、
【私のメールアドレスです】
とだけ書いた。いざ送ろうとするとドキドキして指が震えたが、思い切って送信ボタンを押した。


ほうっ‥‥とため息を一つ吐いて、もう一度渡されたメモを眺めてからバスルームに行こうとしたら、手に持ったiPhoneからピンッとメールの着信音が鳴った。まさかと思ってメールを開いたら、たった今打ったばかりの園子のメールへの返信で、件名欄に、
【今から少しだけ出て来られる?】
とだけ書いてある。本文は空だ。
園子はこんなに早く返信が来ると思っていなかったので、とても驚いたが、とても嬉しくなった。今から会えるとは思っていなかった。
返信画面を開き、同じように件名欄に
【はい。出られます】
と打ち、すぐに送信した。するとまたすぐに返信が来た。
今度は件名は空欄で、本文の欄に
【7階の展望デッキ、船尾側の進行方向に向かって右側で会おう。15分後に。】
と書いてあった。
【了解です】
と返信して、園子は急いでドレッシングルームでメイクを直した。ワンピースを脱ぐ前で良かったなと思った。大きな船だから待ち合わせの場所まで時間がかかる。
支度を終えてバッグを持ち、そっと祖母を見るとぐっすり眠っている。
園子は安心して、静かにドアを開けて廊下に出た。


園子の部屋は10階だったので、エレベーターで7階に降りた。
7階のデッキは、乗船してからすぐに祖母と見に来た所だった。7階だけはデッキをぐるりと一周できるようになっている。
園子はデッキに出て、「船尾側の進行方向に向かって右」に向かいながら、どんどん心臓がドキドキして来た。会った瞬間から素敵だと思った人から、その夜に誘われて二人で会うことになるなんて思いも寄らなかった。
(あの人は余程こういうことに慣れているのかしら)
と思うと、少し怖い気もした。
しかもあのレストランにいた女性はきっと奥さんなはずだ。
園子は足を止めた。
(こんなことして良いのかな‥‥)
良いわけは無かった。
無かったが、その怖さと後ろめたさ以上に、彼に会いたい気持ちが高まってしまっている。客船に乗っているという非日常が、現実感を無くさせているのかもしれない。
園子は決心して、また歩き出した。


昼間と違い、デッキに出ている人は殆どいない。指定された場所に着いてみると、そこにも人影は無い。
(この辺でいいのかしら)
と思った時、ちょうど反対側の角を曲がって彼が現れた。
園子の姿を見るなり笑顔になり、
「来たね」
と、さっきと同じ台詞を言った。園子も思わず笑顔になった。
彼は園子の前に立ち、園子の目を見ながら眼鏡のブリッジを中指であげて、
「乗船前にラウンジで会った時、なぜ僕を見てたの」
「‥‥素敵な人だなと思って‥‥」
園子は、ちょっと困ったような顔で彼の目を見つめ返しながら、正直に言った。
すると彼は微笑んで、
「あなたこそ、信じられないぐらい僕の理想のタイプなんだよ」
と言いながら腕を広げてきたので、園子は胸がきゅうっとしめつけられて、吸い寄せられるようにその腕の中に抱かれてしまった。
彼は園子の腰の辺りを抱き寄せながら、ホルターネックで無防備な園子のうなじと背中の間ぐらいにキスをして来た。
園子はぴくっと肩を震わせた。
(あ‥どうしよう、初めて会った人とこんな‥)
と思いながらも唇の感触に感じてしまい、その唇から逃れるように身を捩ったので、余計に彼の身体にくっつく格好になってしまった。
その瞬間、彼が園子の頭を抱いてキスをして来た。舌を絡められて園子は頭の奥が痺れてしまう。
「んっ‥‥!あ‥っ‥んん」
思わず声を出すと、彼は唇を離して、
「あんまり可愛い声で煽らないで」
と言って園子の顔を見て微笑んだ。
「今夜はここまでにしておこう。あまり遅くなるとまずい。抜け出して来たんだ」
と言って園子の頭を撫でた。




 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?