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葉巻と、それを吸う愛しい人 episode-9

 その日は土曜日であったが、フランクは仕事があったので外に出ていた。しかしそれが思いの外早く午後3時前には終わったので、マリアに電話を掛けてみた。
「おじさま!」
電話越しでもマリアの声が嬉しそうなのがわかるので、こちらも思わず笑顔になる。
「今どうしてた?忙しいかい?」
「全然よ、雑誌読んでただけだわ」
「いや、仕事が思いの外早く片付いたんでね。お前さん出て来られそうならどっかで珈琲でも飲もうか」
「本当に?!嬉しい!すぐ行けるわ!」

 2人は古い住宅街の中にある落ち着いた喫茶店で待ち合わせた。
マリアの方が少し早く着き、店の奥の中庭の見える窓際の席で待っていると、入口から葉巻を咥えてフランクが入って来た。すぐにマリアを見つけてやって来ると、マリアの頭を軽く撫でて「待ったかい?」と聞きながら向かいの席に座った。
「ううん、今来たばっかり」
とマリアは心から幸せな気持ちで答えた。
暑くもなく寒くもない、晴れた気持ちのいい午後である。中庭への窓は開いていて樹々の香りがする。こんな土曜日の、こんな明るい時間にフランクと2人で会えることがマリアは心から嬉しかった。するとフランクが優しい顔で同じような事を言った。
「明るい時間にお前さんと会うの久しぶりだね」
「しかもおじさまと2人で会うなんて初めてだわ」
「ああ。お前さんがジェシーに会いに家に来る時ぐらいだからね、明るい時間なのは」
家、と聞いてマリアは最近会っていないチョコレートが恋しくなった。
「チョコレートは元気にしてる?あの可愛いチョコレートは」
とマリアが聞くと、フランクは頷いた後、困ったような顔で笑いながら、
「あいつ、あの晩からしばらく、あたしにすごくよそよそしかったんだよ」
「…本当に?」
「本当さ。あたしが外から帰ってきても、玄関までは出て来るけど飛びついては来なくてね。こっちから抱きしめようとして腕を広げると逃げちまうんだよ。まあ今はもう元通りになったがね」
「…そうだったの…。チョコレート、さぞかしびっくりして戸惑ってたんでしょうね。そんな風に胸を痛めてたなんて可哀想に…。悪かったわ、私。おじさまにも悪かったわ、私のせいでチョコレートに…」
マリアは心からチョコレートとフランクに申し訳なく感じた。しかしフランクは笑いながら、
「全然お前さんのせいじゃないよ。大体お前さんがあのあと家に来た時、あいつどんな感じだった?」
「…いつも通りだったわ。玄関入った途端に飛びついて来て顔舐めてくれて…」
「そら。あいつはそういうやつだよ。あたしのことは責める気でもお前さんのことは大好きなのさ」
とフランクが肩をすくめて笑う。フランクは、マリアが昔からいつもチョコレートを可愛がって仲良くやっていた様子を思い出していた。そういうマリアの様子を当時から好もしく見ていたことを思い出す。
マリアは、言われてみればチョコレートの態度の違いにちょっとおかしくなって少し笑ったが、
「でも犬ってなんて可愛いのかしら。そんな風に色んなこと考えてるんだと思うと心から愛しく思っちゃう」
マリアがチョコレートの可愛さを思い出しながらそう言うと、フランクが少し真面目な顔になって聞いた。
「お前さん…いや、話が全然変わるけど、その…手術したっていうのは大変な事だったんじゃないのかい?身体も…精神的にも」
マリアは急な質問に意表を突かれたが、
「そうね…でも手術したら身体の調子がすごく良くなったから…。それまでは生理痛も重くてそりゃ大変だったの。ひどい時は立つことも喋ることもできないぐらい痛くってね。だから、こんなに調子が良くなるならもっと早く手術すればよかったと思ったぐらいだったわ。手術した時は痛くて死ぬかと思ったけど」
「そんなにかい?」
「手術の当日は余りに痛くって一睡もできなかったわ。もう痛すぎて寝返りも打てないの。こんなに痛いってことある?って思って仕舞には笑っちゃうぐらいだったんだけど、笑うと更に激痛が走るのよ」
とマリアが笑いながら言うと、フランクは気の毒そうに頷いた。
「ジェシーも何回もお見舞いに来てくれてね。すごく嬉しいんだけど、ジェシーと喋ってるとどうしても笑っちゃうから、その度に激痛が走ってね。その状況がまたおかしくて2人とも笑っちゃうから大変だったな」
マリアは当時を思い出して笑ったが、フランクは困ったような、でも優しい真面目な顔でマリアの話を聞いている。
それからマリアも少し真面目な表情になって、
「でも身体の方はいいとして……子宮を取るっていうのは赤ちゃんが出来なくなるって事だから、周りからも何度も念を押されたし、中には反対する人もいたんだけど…。もし放っておいたらもっとひどくなるっていう状態だったし、それでなくても既に毎月辛かったから……。それに私よくわからないの。手術したのは20歳の頃だったんだけどね、子供って可愛いな、とは思うけど、その頃も今も、自分の子供が絶対に欲しいって思ったことは無いの。よくいるでしょう?結婚しなくても子供だけは絶対に欲しいっていう女の人って。でも、私はそういうことも無くって…冷たいのかな…」
「…お前さんがチョコレートを可愛がる様子を見てると、冷たいどころか優しさの塊に見えるよ」
「…ありがとう」
マリアは嬉しくてちょっと微笑んだ。
「いや…ごめんよ、悪いこと聞いて。気になってたもんだから」
「ううん、本当に大丈夫なの。……もうお腹の傷口も目立たないでしょう?」
「……ああ。確かにね」
「でもね。私、自分の子供はできなくても、どこの誰の子供であっても、世界中のすべての子供は幸せであって欲しいっていつも心から思ってるわ。…大人に対してはそんなこと思ってばかりもいられないけどね」
とマリアが肩をすくめて冗談のように言ったので、フランクも少し笑顔になり、
「そうかい?」
「そうよ。例えばジェシーの上司とか」
と言うのでフランクは声を出して笑った。

 子供についての話というものは、どんなカップルの間でもそうかもしれないが、特にこういう関係の2人にはとても微妙で繊細な問題であるはずで、特に男性側はきっと、できれば避けたい話であろうとマリアは思っていた。それを敢えて聞くというのは余程無神経か、余程優しいかのどちらかだと思う。
そしてマリアはフランクが余程優しいのだとわかっている。
あの晩…あの最初の晩に、マリアが中でイッて欲しいと言った時、フランクの戸惑った表情は、明らかにマリアの心の方を気遣っていたからだ。

 マリアは自分の経験上、男の人というのは誰でも、可能ならばいつでも何もつけずに中でイキたいものなのだと思っていた。だから、フランクが事情を理解しながらもマリアのことを思いやる表情で戸惑うのを見て、あんな時ではあったが嬉しかったのだ。今思い返しても温かい気持ちになる。
「おじさま、いつも優しくしてくれてありがとう」
「……こっちの台詞だよ、それは」


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