見出し画像

彼の噛みあと 第5話

「もっとあなたのこと苛めるつもりだったんだけどな。あなたがちょっと可愛すぎた」
呼吸がおさまって来た時に、彼は園子の頭を撫でながら言った。
園子は胸が甘く締め付けられた。そして彼の名前を呼びたくなり、
「あ‥の‥」
と言いかけたが、何と聞いたらいいのかわからなくなっていると、
「僕の名前?」
と、驚くほど園子の聞きたいことをそのまま言ってきた。しかし、その後は笑顔で突き放すようなことを言った。
「言わない。検索したくなっちゃうでしょう?」
園子は急に淋しくなったが、彼は続けて
「あなたは何て呼びたい?」
と聞いて来た。園子は少し迷ったが、
「‥‥おじさま」
と切なげな顔で彼の目を見つめて言った。
すると彼が笑いながら園子の頭を抱き寄せてキスをし、
「やっぱりあなたは僕が思った通りの人だね」
と言った。
「‥‥嬉しい」
「僕の方こそ」
「‥‥おじさまはこの部屋に泊まってらっしゃるんですか?」
「まさか。あなたのためにもう一部屋借りたんだよ。だから次からも僕が呼んだらここへおいで」
園子は驚いた。自分のためにそこまでしてくれるなんて。
「あとね、僕はパイプカットしてるから妊娠の心配はしなくていいよ」
園子は、知識としてしか知らなかったその手術をしている人を初めて見た。世間ではパイプカットをする人を「遊び人」という文脈で語りがちだということも知識として知っていたが、園子は「女の人に望まぬ妊娠をさせない」という点でピルと同じだと考えていたので、好感を持った。
「私もピル飲んでるんです」
「本当に?‥感動的だな」
「高校生になった時に祖母に諭されて‥‥祖母が女医だったこともあると思うんですけど」
「あなたと一緒にいるあの人?」
「ええ」
「さすがだね。見た感じも素敵な女性だと思ってたけど」
園子は、祖母を褒められたことも嬉しかったが、園子の周りもちゃんと見てくれていたのだと思って更に嬉しく思った。
「あなた両親は?」
「健在です。二人とも仕事でここへは来られませんでしたけど」
「医者?」
「母は医者ですけど父は普通の会社員です」
「そう。素敵な娘を育てたものだね」
と微笑みながら言われて、こんなに真正面から色々自分のことを褒めてくれる彼の態度を嬉しく感じた。
「兄弟は?」
「いません」
「そもそも、あなたいくつなの?」
「27です」
「へえ、じゃあ38も下か」
「65歳なんですか?」
「そうだよ。園子は大人っぽいね。もう少し上かと思ってた」
園子も自分の聞きたかったことを聞いてみた。
「おじさまが一緒にいらした方は‥‥奥さまですか?」
「そう、妻。もう一人の男は僕の秘書」
やっぱり奥さんだった。彼があまりにも罪悪感を持っていなそうなので、ひょっとしたら違うのかもしれないと思っていた園子は、また少し淋しくなった。
そして、秘書を連れて来るぐらいだから、この航海中もずっと仕事をしているのかと思いそれも聞きたかったが、名前も言わないぐらいだからきっと教えてくれないだろうと思って聞かなかった。
「そういえばあなたさ、初日には香水つけてたのに、なぜ今はつけてないの?」
「‥あの、だって‥香りがおじさまに移ったら悪いかと思って‥」
「妻に疑われたら悪いからっていう意味?」
「‥ええ」
「そういう気の使い方はしない方がいいよ。あなたのそういう優しさに付け込む男がいるといけない」
「‥‥‥‥」
「残り香をどうするかなんて男に考えさせればいいんだよ。僕はあの香り好きだったよ。次はつけてきて」
「‥ありがとう。‥‥おじさまの香水もいい匂い」
と園子が言うと、彼は微笑んで園子の頭を撫でて、
「あなたも僕に惚れてるのかな」
と言った。園子は顔を赤くして少しだけ頷いた。すると彼が少し笑って、
「あなた、付き合ってきた男はみんな年上でしょう?しかも、みんな相当年が離れてる」
突然図星を指されて園子は驚いた。
「‥ええ。大学時代に少しだけ付き合ってた人以外は‥‥どうしてご存知?」
「敬語の使い方が慣れてるし、いかにも僕達ぐらいの男が放っておかなそうなタイプだもの」
「‥‥‥‥」
「でももう他の男は見ないで。僕のことだけ見て」
彼にこんな強引なことを言われても、園子は全く嫌じゃなかった。
どころか、嬉しくて酔ったような気持ちで頭がぼうっとして来た。


「もうこんな時間か。そろそろ戻ろう。もっとあなたと話していたいけど」
園子は、彼に求められているのは自分の身体だけなのではないかと心の隅で思っていたので、「話していたい」と言われて、また胸が甘く締め付けられた。


服を着ながら彼がこの部屋の合鍵を渡してくれた。
「あなたが先に着いたら入ってなさい」
「はい。‥ありがとう」
「あなたの部屋は何階なの?ここから遠い?」
「10階です。そんなに遠くありません」
「10階?!僕も10階なんだ。スリリングだな」
彼はそう言って笑い、
「園子。今日は来てくれてありがとう。次はもっと苛めるから覚悟しておいて」
と言って園子にキスをした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?