ポジティブ、ネガティブ、レジリエンス

 
人は、いずれ年を取って病気になりそして死ぬとかそういうものが見えているんだけど将来きっと幸せになるはずというのは果たしてどうなんだろうか。

誰もが必ず死ぬ運命にあるんだけど身近な人たちに看取られるのは誰しも望むことかもしれないけど、100年後の人々にしか理解されないような 研究をしたりして一人寂しく死ぬというのも必ずしも不幸とは言い切れないんじゃないかなと 。財産を 気づいて多く友人を得てもまた家族に恵まれたとしてもとにかく最後にはすべて何もなくなってしまうのはみんな同じなんじゃないかなと思うんです。事実そうかなって。

生きていく上で自分らの 身に起こること は決して順調なことばかりじゃない。まあ体がだるくなっちゃったり、歯が痛くなったり、 腹痛がしたり、頭痛とか、目が悪くなって眼鏡をかけるようになったりとかあるいは事故に巻き込まれて とか。いろんなことをあげてくと、自分たちの人生というのは気にするときりがないような小さなトラブルとかの連続で思うがままにならないんじゃないかなっていうことかなあと。むしろ、何もトラブルを抱えてない人間の方がこの世の中には全然いないんじゃないかと。 自分の身にいいことが起きれば大喜びをして、悪いことも起きれば自分の運命なんだなーってのこともあるだろうと。 

でも、今時自分にあんまり出来事が起きていないから言えるかもしれないけど、僕らが生きる意味を知るのは、我が身に降りかかった災難(この言葉が適切かは微妙ですが、すみません)によってではなかろうかっていう事で。確かにそれが起こらなかったら自分の人生は何かむなしいものになってたんじゃないかなっていう風にも思うんです。災い転じて福となすっていうけど、災いがなければ福もないし、むしろ降りかかった災難に 、人生が変わるきっかけということを気付くっていうか認識する必要があってもいいのかなって思ったりします。死に方が分からなければって言ったらなんか極端なんだけども、でも確かにその一方で生き方も分からないんじゃないかと。生き方が分からなければ死に方も分からないというか・・。 

やっぱり生きる上で一番最後は死んじゃうわけだから、死ぬことを最大の幸福としてみなす生き方を基盤に考えていくと、あのやっぱり自分たちの生活を豊かにする、生きていく力はちゃんと考えていかなきゃいけないのかなって、やっぱり思うのでちょっとNOTEに書いてみました。

それと、人生において大切なことの一つにいろんな人との関わり というのがあると思うんです。なんかなんだ、だいたい人生の困難なことっていうのが、恋愛だとか進学、将来のこと、就職とか、そういった人生の中で最も大事なことが 、人生の本当の初めの頃にかたまって降りかかってくるところがすごく大きいんじゃないかなって思うんです。

自分にとって一番大事なことを選ぶとき、最初はどうしても間違いで来て、その間違えたまま人生終わってしまうという可能性もあるかと。

 

大事なことを選ぶという意味では、むしろ正しい判断をしたっていうことの方が難しいって思うのです。そして、全ての選択にはそれ自身間違いが含まれてるんじゃないかと。だから、「正解」と「不正解」があるわけではなくて、その時にどのような振る舞いをするかでその人の人間性を知ることにもなるし・・・。

  

人はどこかで選ぶこと選択を余儀なくされると 、そして、それによって失望したり落ち込んだり後悔をすることもあると。 どちらの選択を選ぶことによっても、正解がなかったからといってそれなら仕方ないって諦めるわけにもいかない。 一方を選んだことによってもう一方を選ばなかったという事実からして人は後悔をせざるを得ない状況に置かれてしまうだろうと。

 

好ましい選択と誤った選択があるということではなくて、 どちらが正しいかは死ぬまでわからないってことじゃないかと。もしかしたら死んだ後になって別の評価が与えられるかもしれないし、いつかまた評価が逆転する可能性だってあると。 だからある選択を行った結果、成功した自分がいるかもしれないしその選択を避けることによってかえって失敗することになるかもしれない。 でもだからといってどちらが正しいとか間違ってるってことではないと。いくつかの過ちだったりそういう体験をすることでその人にとっての人生が始まるってことでもあるんじゃないかと 。 選択をしてつまずくところから始まるんじゃないかと思ったりします。 

 

どんな選択をするにせよ、あのあらゆる選択には誤りが含まれていて、成功か失敗かはそう簡単には判断がつかないのかなーって 。そう考えるとその時その時で決断を下すっていうのは急に大きな決断をするっていうのは確かによろしくないことだよなーと思う。 その時に成功に見えたとしても後に大きなトラブルを抱えることになったり。失敗に見えて大きな成功と結びつくことだってあるかもしれない。 それは自分自身が生きているうちのだけのことではないかもしれないし、 もし自分自身の判断が正しかったかどうかは周囲の人々のその後の生き方に影響を与えて、どこまでも因果関係というかその影響の結びつきはそれなりに続くことになるのかな~とも思ったり。

 

人生は成功と失敗の繰り返していう風に言われることは言われるけど、一体何が成功で一体何が失敗かはホントんとこは判別つかないことが多いんじゃないかなと。失敗っていうことに関してはすごい自分なんかは、敏感に感じるもしれないけど。。。その点、スポーツなんかでいうと、結果がその前に目の前にでるから、スポーツでいうとわかりやすいのかなあ。

 サッカーの三浦知良さんはすごい興味深いことを言っていたのをおぼえています。それはですね........。

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   〈シーズンが終わった後に成功していればいいけど、もし結果を残せていなかったらどうしようとか・不安にならないですか?〉っていうようなことをインタビュワーが聞いていたんですよね。その時にね、彼が言った言葉がすごく印象に残っているんです。

 三浦さんが言うに、

「それは確かにすごく重要なことだと思う。最近、何が成功で何が失敗なのかって考えることがあると。で、試合に出てゴールを決められれば成功で、試合に出られなければ失敗なのかと。 周囲の判断基準は確かにそういうとこにあるかもしれないけれど、と。 でも、僕自身の成功の価値観はすごく違ってると思っていて、それは、例えばイタリアリーグで20点入れればそれは一番の成功かもしれない。 だけど苦しんで、3、4点ゴールを決められればそれは成功の値するものではないのかと。 失敗して叩かれてそれで人間大きくなることだってあるでしょうと。なおかつそこから頑張っていいプレーをすることが自分を成長させることになるんじゃないかと。 僕は今予測もつかない先のことで成功と失敗を思い悩んだりはしていないと。そして、自分がポジティブになって全てを受け入れられれば正解じゃないかって自分では思ってる、と。 で、僕自身は必ずそう出来る、と。だから失敗はない」っていうコメントだったんです。

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この三浦知良さんのコメントを聞いてなんかすごい響きが哲学的で凄い深いなーって思ったんですね。

 1人の人間にとっての成功が世間的な評価とそのまま直接結びつくわけではないぞ、と。それより、自分に起こることになるべくポジティブに受け入れられてたら、それは自分にとっての成功ではないかと三浦カズさんが言ってるんじゃないかと思うんです。まさにその通りではないかと。 成功とはある経験が自分を強く柔らかくするということではないかと。

  

そして、いかにうまく生きられるかということじゃないかと。 だいたい大きな困難にぶち当たってる人に、「前向きに」とか「ポジティブに」とか言ってもすぐにはその人自身は納得できないんじゃないかと思うし、気持ちの切り替えだけで物事がうまくいけばそんな簡単なものでもないというか。。と、そこにはもっと根本的な問題が潜んでいるんじゃないかと。

そんなことをかんがえていました。普段は見えないものがその時初めて見えてくる、人の苦しみや悲しみが理解できるようになっていくのでは・・と

そんなことを考えていました。(とりとめのない文章になったかも・・ごめんなさいです<m(__)m>)

レジリエンスについては、また次の機会に書けたらと思いますm(_ _)m

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