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嫉妬まみれドッカーン。

 最近あまりにも弱音と愚痴をこぼしすぎていました。
 相当自分がひねくれてきていることには気づいていましたが、さっきお風呂に入りながら、神様から示されたこと、

 __ 私の中の、「党派心」と「嫉妬心」


 教会を出ることになり、仕事もなくなり、貯金もなくなり、家も失い。
 それを私たちは、後悔してはおらず、むしろ、信仰をフル回転させて選んできた道だから、どちらかというと誇りに思っているぐらい。(自分で言うのも何だけど。)

 でも、どこかでやっぱり、「何でよ!」と思う自分がいたのも事実で。

 私たちの出た後の教会は再出発を果たしていて、

 同じ信仰に立つの同業者は右肩上がりで、

 私たちは常に自分の手では何も得ることができていなくて

 「人を潤す」ことを目標にしてきたはずなのに、潤されてばかりの自分にもどかしさを覚えるばかりで。

ミイラ取りがミイラに


 数回教会を出ることになった自分の境遇のおかげで、

 「教団を超えて尊重し合うこと、認め合うこと」

 を学べてきたと思っています。…思っていました。(?)


 ところが私は「教団がちがうからと言ってさばく人間には絶対ならない」と、過信してしまったようです。

 たぶん、教会を出た(出された)自分を、正当化したかったんだと思います。


 私たちは幸い、いろんな教団・教派のクリスチャンと出会いました。教会に所属していてはおそらく交わることのなかったであろう人たちとも交わることができました。


 しかもその出会いの多くが、信仰によって、「召し」を全うすべく事業を起こした方々ばかりで、
 上手くいかないエピソードだったり、それでもなお神様に従っていく証に、励まされることも多々ありました。


 でも中には「おやおや?」という神学の方もいたりして。(異端ではないと思うが…)

 出会いの中で「信仰」が重なる人もいれば、そうではない人たちもいて。しかしそのすべての交わりから、「私の信仰」を見つめる時間が生まれました。


 __で、問題はここから。


 そんな交わりを通して、私たちを応援してくれる人たちもでき、やがて私は「自分の信仰は正しい」と思うようになっていたみたいです。
 それは、「私党」みたいなもの。自分と波長が合う人だけを探そうとしている自分がいました。

 本当に、穴があったら入りたいよ。
 あれだけ神学や教団の違いでさばく人間にはなりたくないって思っていたのに、気がついたら、
 ミイラ取りがミイラとはこのことなのでしょう。

 異なる信仰に立ちながら人生右肩上がりの人を見て、妬んでいるわたし。
 同じ信仰を持っていない人をさばいているわたし。
 悔しくてたまらない思いで聖書を教えているわたし。


 あぁ、神様にごめんなさいでいっぱい。妬みと党派心で、尊いみことばを転がしてしまったよ。

ペテロとパウロのフィールド


 私の中にある「嫉妬心」と「党派心」に気づかせてくれたのは、夫の一言でした。

 幸い夫とは、ほとんど神学のちがいや信仰のちがいはない。からこそ、夫はいつも私の信仰を励ましてくれたし、認めてくれていました。

 それなのに、仕事もプライベートも上手くいかない私に、夫は言いました。

 「同じ目的を持っていても、畑がちがうんだよ。ちがうフィールドで働いていかなきゃ」と。


 __その一言で思い出したのは、ペテロとパウロの関係。

 ペテロはイエスさまの一番弟子。イエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と直接の召しを受けた人。

 そんな中で現れた、12弟子でもないパウロ。めちゃくちゃ福音を語っては多くの人を救いに導いているではないか。

 「元パリサイ人だか何だか知らないけど、俺は先生(イエス)の一番弟子なんだぜ?!」
 
なんてペテロが思ってもおかしくない、"宣教師" としては相当なライバル

 …の、はずなのに。


 二人はぶつかることもあったし(ガラテヤ2:11-14)、褒めてんだかディスってんだかどっちなんだよ!って言うところもあるけど(1コリント9:5、2ペテロ3:16)、
 二人は互いに互いの働きを認め合っている。(2ペテロ3:15、ガラテヤ2:7-8)


 同じ「キリストにある福音を宣べ伝える」という目的をもったふたりだったけど、フィールドがちがうから尊重し合っている。

 ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音を委ねられている__
 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人の使徒としてくださった__
ガラテヤ2:7-8

 …そっか、それぞれちがうフィールドにいるなら、自分は自分でひたすら前に向かって働けばいいのか。
 __と、「妬み」をようやく克服できたような気がしました。


さばいてはいけない。心の中で確信を持て。

 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。
 神がその人を受け入れてくださったのです。

 ある日を、他の日に比べて大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。
 それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

 あなたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

 私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
  __ローマ人への手紙14章(一部抜粋)

 夫の一言で「嫉妬心」と向き合った私は、あらためてこのみことばを思い巡らしました。

 私が妬んだ人。と同時に、私が思い出したのは、私がさばいた人。

 「嫉妬心」と「党派心」の間で、私が悟ったことは、

「その信仰、その神学によって救われている人たちがいる。真理は一つだが、同じ御霊がそれぞれを信仰に導いている。
 私は私の信仰を神の御前に保ち、その確信は心の中で持つ。
 妬みや党派心からではなく、信仰からすべてのことを行っていく。」

 …もうヨブのきもち。ヨブほど辛い目には会ってないけど、なんかこの「失う」期間を通して、自分の中にある妬みの種に、神様は気づかせてくれたんだなと、
 ヨブの最後の悟った感がなんか乗り移った感じです。

 実は母からこのことを指摘されてイラッとしたことがあったんだけど、私は自分の正しさを主張しすぎていたなと、今になって思った。
 

 この話を夫にしたら、夫は聖書を開いて言いました。

 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
 
 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。
 __ガラテヤ1:15-18

 そうです、皮肉です。笑
 私が党派心によって宣べ伝えてしまったことも、妬みによって宣べ伝えてしまったことも、キリストが宣べ伝えられているからよしと、パウロから言われた気がします。

 ありがとうパウロ、ありがとう神様。
 私が妬んだ人たち、さばいた人たちに、格別の祝福を注ぎ、みことばを宣べ伝える働きに成功を与えてくださいと、ごめんなさいのきもちでいっぱい。

 これからは党派心と妬みからではなく、信仰からあなたのみことばを宣べ伝えたい。と一人祈る夜なのでした。

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