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ふつうのかあちゃんが博士課程に進むまで④


 当時、私は正式な教員になることはできなかったが、修士課程に進みながら、
 私立の中学校で歴史の時間だけ担当する時間講師のアルバイトをしていた。

 ようやく、歴史の教師として、スタートをきることはできていた。

 研究と実践と恋愛とで、私の24時間は埋まり、
 卒業したら、正式な教員となり、
 お付き合いしてる彼と結婚、という夢に向かって
日々、研鑽をしていたのだが、

 マスターk先生の
 『博士課程行ってみようか?』のお誘いに、

 ふと、心が揺らいだ。
 私が、ドクター?

 勉強に関しては、
『私は勉強ができない』というコンプレックスを
 常に持ち続け、
教員を目指すも採用されず、

 自分を必要としてくれる場所なんか、どこにもない、とやさぐれていた時に、

 『ユー、博士行ってみちゃう?』
と、声かけられたら、
 22歳女子は、『ちょ、ちょっと話は聞きたいかも』となり、
 ウキウキの気持ちにはなるであろう。

 中学校の担任に、
 『短大すらいかれない』予言をされていた身としては、
 『最高学府へのチャレンジ権を与える』と言われたなら、

 さしずめ、
 月影先生に

 『紅天女を演じる権利を与える』と言われた北島マヤみたいなもんである。

 いくら紫の薔薇の人に反対されようとも(反対をすることは話にはない)

 『やっぱり、オラ、トキだー』と、リアル泥団子を食べるのが、北島マヤであろう。
 
 まずは喜びを彼に伝えねば、と待ち合わせ場所の新宿アルタ前に向かい、

 ウキウキウォッチングな気持ちで伝えると

『博士課程行ったら、忙しくなるから、
 関係うまくいかなくなると思うんだよね』

 と言われ、一瞬にして、

 『はい、博士課程選択、消えた〜』と、

 翌日には、『だが、断る』という成り行きになってしまったのである。

 『博士より結婚』

 私は間違えていない、博士は私を24時間寝かせてくれないけど、結婚は、私に24時間ダーリンの腕枕を与えてくれる。

 自分の選択に微塵の後悔もなかった。
 むしろ、誇らしかった。
 愛を選んだ私の背後に流れるBGMは、『威風堂々』であった。

 ダンベル並みに重い冊子の(ゼクシー』を帰り道に 
抱え、意気揚々と家路に着く。

 晴れやかだった。

 が、その一か月後、まさかの二股発覚!
 別れ話をされ、
 その愛は一方的に強制終了されてしまう。

 あと、一か月早く別れてたら、

 私は、泣きながらも、新しい旅路として

 博士課程に進んだのに。

 私は博士課程の道を自ら捨ててしまった。

 一回目の博士課程断念。

 (実はもう一度数年後にチャンスがやってくるのである)
 愛と研究。
 両立する自信がなかった。

 要は、自分の足で歩く道の恐ろしさにひれ伏し、
誰かに頼ろうとした自分の選択の結果だと、
 今なら思える。
 
 研究の道はゴールが見えない。
 結婚は、恋愛の一つのゴールの形ではある。
(ゴールというよりは通過点かもしれないが)

 私は、見えない世界に行く勇気がなかったし、
 楽をしたかった。

 だから、その時は、選択肢を間違えた、というよりも、まだ、その資格に相応しくなかったのだ、と思っている。

 ドラゴン倒すどころか、スライムと戦うことに怯えている身では、鋼の剣すら持つことができない。

 経験値が圧倒的に足りなかったのだ。

 ただ、二股かけて別れるつもりなら、
 反対すんなよ、とは今でも相手に言いたい。

 その後、子沢山の結婚生活を送っていると聞いて、
彼は彼なりのベストな選択を探ってたのかな、と心広く思いつつも、

 女の愛や将来を軽く扱うな!と。

 自分が男性だったら、悩まなかったと思う。
 マスターkの胸に飛び込んでいったと思う。
 忙しくても、恋愛も結婚もバッチコーイだったと思う。

 だけど、私は、就職も結婚も、
 選ばれてするものだと、そう思っていた。

 今の20代女子だったり、あの頃も超エリート女子だったら、その感覚はなかったかもしれない。

 私は、ただの何も誇れるスペックのない女子だった。
 フォースの力もない、大女優と名監督の娘でもなく、
 自分の夢さえ叶えられない22歳の女子だった。
 
 選ばれる、
 その立場を切望する私から脱却するまでに、
 私は、25年かかってきた。

 そうして、ふつうのかあちゃんとなり、
 ようやく博士課程に戻ってきたのである。

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