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音楽と世界



 昨日、チェロの先生に、突然「けいさんは音に匂いだとか色だとかは感じる人ですか?」と訊かれた。移弦(読んで字のごとく弦を移動して弾く)の練習が終わったあとのことだった。
 一瞬虚を突かれ、感じません、と答えた。
 共感覚のことだなとはすぐにわかったのだけど、それより何より、私のどちゃくそにへたなチェロを聴いてどうしてそんなことを訊こうと思ったのかが気になった。もしかしたら生徒さん全員に訊いたのかもしれないけど、私の音のどこにそんな気配があるというんだろう。
「音にそういうのを感じる人がいるんですよねえ」と引き続きのらりくらりと話すので、私にとって音は音ですね、と言っておいた。


 私にとって音は音だ。果てしなく音だ。
 でも、音楽を聴くと、その音楽から光景があふれかえることはよくある。
 共感覚などではなく、幼い頃から培った想像力が、音楽の中だとより一層たくましく羽ばたいてゆくだけなのだと思うけど。
 思春期の頃は、音楽で(歌でもクラシックでも何でもいいのだが)すぐに泣くものだから、よくまわりに不審がられたものだ。

 見たこともない風景や、会ったこともない人物の姿を、私は音楽の中に描く。
 そういえば、友だちは初聴きだと歌詞すら聴き取れない、歌詞カードがないと何を歌っているのかわからないというので、そんなものかな、と思った記憶がある。言葉があろうがなかろうが、ひとたびそこに音楽が流れれば、私はなんとなく情景を見るし、作り手はこんな人なんだろうなといつも夢想する。
 私にとって、音楽に乗る感情はとても捉えやすい。どんな媒体より感情がきこえる。詩より、小説より、ドラマより、映画より。だから昔から、自分が書く小説の世界を膨らませるときはかならず音楽を聴いた。書いているときに聴くこともあった。読者はいつも「あなたの文章はすごく静かだ」と褒めてくれたものだけど、書いている本人はとんでもないくらいの音にあふれかえっている中で書いていることもあった。


 私にとって音は音だ。果てしなく音だ、そしてされど音、だ。

 私の仕事の特技は電話応対なんだけど、相手の態度や気分が掴みやすいから今では業務の中で一番楽な仕事だと思っている。そりゃあ、嫌な電話も来るし、不愉快な電話もあるけれど、窓口に来て胸倉掴み掛かられるわけでもなし、怒鳴られる気配があれば受話器を離して遠ざかれるし、なんだろうな、顔がみえない分慎重でいなければならないのは確かなのだけど、こう書くと語弊はあるが、言葉の後ろにある感情やニーズは電話が一番わかりやすいし、客観視しやすい。事を、自分と突き放して考えられる。

「あんた一時間もよく穏やかな調子で会話できるわね」と諸先輩方に褒められたのも昨日の話で、いやいやもちろんめんどうだし、私は耳に持病があるのでぶっちゃけ一時間も耳元で話をされると難聴になるし、一時間のお問い合わせやクレームはできればご遠慮願いたいのは間違いない、が、しかし、業務の中では(私にとっては)大したことではないのは確かだ。

 音(声)は一番その人の性質がわかりやすいので、対応に苦慮しないで済む。


 私のチェロは三年経っても相変わらずへたくその極みなのだけど、「何かを思い描いている感じはする」というのはたびたび言われていたので、共感覚の質問もその延長だったのかもしれない。
 まだ表現できる技術力まで辿り着かないのがもどかしいとは思いつつ、まあなあ、だいたいいつも「こういう世界だな、こういう物語だな」と想像して音符を追っているので、確かに思い描いていることはある。

 私はのだめカンタービレ劇場版の後編が十指に入るほど好きなのだけど、それというのもクライマックスの千秋のセリフにとても共感するからなんだなあ。

それでも、俺はやっぱり何度でもあいつをあの舞台に連れて行きたいと思うんだ。


 わかるなあ。
 のだめが音楽を聴いたときの感動の描写も、千秋がのだめのピアノに抱く感情も、私はよくわかるような気がする。





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