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会いたいとか会えないとかの話

様々にあるSNSサービスでは、(特にfacebookでは)旧知の誰々がどうなった、どこどこに行った、新しいモノコトをリリースしたなど、知り合いに関する情報が流れている。そこにサムズアップを入れたり、ハートマークを押したり、共感同意する場合にはシェアする。

そうしている中で、たくさんの人と繋がっているようで無性に人恋しい気持ちが湧いてくる。羨ましさ?緩やかな嫉妬に近いのかもしれない。自分がやれなかったことへの後悔でもあるのかも。

旧知の誰々がどうなった
(どうして、私はそこにいないの?)

どこどこに行った
(一緒に行きたかったなぁ)

新しいモノコトをリリースした
(すごい、その後押しでもサポートでもしたかったな)

見る側の私も発信を行う側の1人のユーザーだから、タイムラインに現れるイベントの一部になりたい、と思う気持ちがある。
それと同時に、当事者になるのは勘弁でございます。丁重にお断りさせていただきます。その携帯性に優れた便利なカメラを向けるなよぃ、テヤンデェチクショウ的な気持ちもあるようだ。

タイムラインを見ていると相反する感情が産み出す言葉に思考が奪われる。整理が難しい状況が生じてもどかしいので「いや、見てないんですよ。あんまり」と宣言をしつつ、立ち位置を確保する。

周囲から期待されている自分と主役になりたい自分が同時に現れているのだろう。

相反する感情の境界線、そして、その混ざり合う瞬間が作り出す想い。もう少し社会といったものに根ざしていくとすれば承認欲求と呼ばれるような繋がりへの期待だろうか。
タイムラインを眺めるたくさんの人の口から「うっ、もうーん」と言うもどかしさが漏れ出てるんだろう。この世界で。

話は変わるけれど、テレビは偉大だった。
「個対マス」と言う構図の中で華々しい、一方で毒々しいニュースは誇張表現がふんだんに盛られながらもここ数十年はずうっと提供され続けている。今でも僕の親世代は隙あらばテレビをラジオのように流している。若い世代では、ブラウジング先はウェブに置き換わり、より仔細に、繊細に見る者の心に寄り添えるようになった。

視聴者として、誰かの頑張った形跡を見たい。
表現者として、自分だけの世界を創り出したい。

この文章を書きながら、この受け取りの仕組みは古く人が集まりだした頃には道具は違うだろうけれど、存在していたんのだろうと思えた。

テレビやネットを眺めるのと同じ状態を考えてみるならば、人が集まりやすい広場的なものに権威のある人が張り紙をすることができる立て看板を立てる。
するとそこでは人の意識を掴むメディアが生じる。

ありがたいことだ。
自分は体験をしなくても、誰かの偉業を目にすることができる、悲惨なことであれば自分はやらなくてもいいことがわかる。

そして同時に

つまらないことだ。
自分は体験していないのに、もうやらなくてもいいかなぁと判断する意識が沸き起こる。見たかった映画を先に見た誰かに教えられた時のガッカリ感。

自分と世界の境界線での足取りは自分自身で決めていい。むしろ、その足取りの感触がどのようなものだったかが最も重要な体験、降り積もることで大切な記憶の創造につながっていくのだと思う。

僕は僕以外の足取りしか知らない、あなたはあなた以外の足取りしか知らない。だから、私はあなたの足取りの喜びを教えてほしいと思う。

あなたが選んだ方法や道のりなのだから、誰もあなたを責めることは無い。そして、誰も歩んだことのないあなた自身の道のりなのだから、ヘビは出てこない。ヘビが出てくるのはむしろ自分の持ち物の中だろう。
その代わり、足を踏み入れる先はあまりに広々としているから、不安になるかもしれないけれど大丈夫。きっと道すがらで同じように進んでくる誰かに出会うだろうから。

会いたいとか、会えないとか。
そうゆう結果にたどり着くその手前、一つ一つの日々の選択の中に、少し先の自分が産まれる。
明日の自分のことは、これまでの自分は知らない。

自分に会いに行こう。

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