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20年で変わった「モラトリアム禍」を想う

京都のカルチャー書店・恵文社でのキャリアを経て、自身の書店・誠光社を設立された堀部篤史さん。

堀部さんが書かれたエッセイ『90年代のこと』を読んだ。

90年代を振り返りつつ、その視点から現代の街やカルチャーについて思うことが書かれている。

昔は良かったなどと言うつもりはないが、もうこれ以上いらないとは強く思う。これ以上美味いビールも、名前も聞いたことのないような国の料理を出すレストランも、さらに画素数の高いカメラ付きスマートフォンも、もっとエシカルなファッションも、土地や時間に縛られない新しい働き方も、いまだかつて誰も聴いたことのない音楽も、より多くの「いいね」もフォロワーも、これまでになかった新しい本屋もいらない。

『90年代のことー僕の修業時代』堀部篤史

「インスタ映え世代」の私は、その一文に深く共感してしまった。

わたしは90年代へのあこがれを抱いている。
現代のスタンプラリー的な消費活動ではなく、
一つのモノやコトにどっぷり浸かる消費活動が主流だったあの時代に。

この20年で何が変わったのか?
いうまでもなく、インターネットやSNSの発達だ。
その影響により、消費と生産活動のサイクルがかなり短くなった。
インプットとアウトプットにかける時間的・金銭的なコストがかからなくなったために、「新しいもの・手短に楽しめる・有益な情報を得られるもの」といったものばかりが求められている。
(こういったネット社会の弊害に対するひとつの回答については、宇野常寛氏の『遅いインターネット』に詳しい。)

とはいえ、スマホひとつでお手軽に映画や音楽を鑑賞し、自己表現ができるのは恵まれた時代だといえよう。
そんな時代に「モラトリアム禍」(コロナ禍、ふうに言ってみたかった)を過ごす私は、ある違和感というか、「なんかやな感じ」を抱く瞬間がある。(ニルヴァーナ風に、"Something In the Way"といいたかったがやめた)

モラトリアム禍における最重要課題「私とは何?」にすら、
かんたんに答えを出してしまっているのでは…?と感じるからだ。

モラトリアム禍では、「何者かになりたい」欲求と、「何もできない、何をしたらいいのかわからない」という葛藤に悩まされる。だからこそ、若者は自分の内や外に目をむけ、消費活動をおこなう。
趣味嗜好の方向性から「自分とは何か?」の答えを探そうとする。

90年代、音楽をきくにはレコードやCDが必要だし、情報は雑誌で仕入れるし、映画はシネコンかDVD。電子書籍はない。だからこそひとつひとつを大切に、かじりつくように摂取する。

ところがいまはスマホで完結する。最近の流行りや気になったものをとりあえずおさえつつ、友達の事情もチェックしつつ、SNSにアップするまで。だいたいが流れ作業。

人間の脳は20年で莫大な進化を遂げるはずがないのに、かしこいデバイスは恐ろしい量の情報をみせてくる。だからこそ、流れ作業で処理していかないと追いつかない。中身の深いところまで興味をもつ時間なんてないから、流行りのもの・好きなものの名前とかポイントだけ抑えていればまあそれでいいのだ。

「自分とはなにか」への答えをみつけるためには、自分を対象物として見る必要がある。自分の目で自分の臓器はみえないが、レントゲン写真をとれば見られる。自分のキャラクターを見るにも何らかの手段が必要だ。

きっと90年代は、それが創作活動だったのだろう。音楽好きはミックステープをつくったりバンドを始めてみたり、本好きはこっそり小説を書いてみたり、、。自分の感性と向き合いながら創作をする。そうして出来上がったものが「対象物」となり得る。膨れ上がった自意識を、何らかの作品へと昇華させる作業なのだ。評価する人間は友達か、それで満足できないと公の場へ活動を広げる。公の場で評価されるためには、創作物のほうを磨く必要がある。

現代ではなんとなく、「宣伝活動」に近いような気がする。自分をラベリングして、ネット上できれいな写真をあげたり自分の思いを語ったりする。そうやって、SNS上の自分が「対象物」となる。「~~をしている人」「~~が好きな人」というだけで、簡単に自分自身を客体化できる。自意識をそのままに、良い感じにラベリングするだけ。いいねやフォロワーが多くつくと「すごい人」っぽくなる。時間をかけずにコンテンツを判断できる材料がそろっている。中身を磨く必要性はひとまずはなくなった。

現代ではスマホの広告ばかりみているせいで、
消費活動で拵えた趣味嗜好・到達地点たる表現活動すら、
アルゴリズムが提示する選択肢の産物でしかないのでは…?とすら、思ってしまう。

さて、絶望は安易だから、なにかしらの落とし前をつけたいところ。
ノスタルジアに支配され、内にこもりがちではなにも生まれない。

これからの文化を担う、という大きな話ではなく、
自分がすこやかに生きるために、創作は必要だと思う。

意図的に、「偶然の出会い」をつくる。
徹底的に、掘り下げてみる。そして、対話する。
手当たり次第に、何でもやってみる、つくってみる。

広げる、深める、つくってみる。時代と手段が変わっただけで、ものの本質はきっとシンプルだ。まずは消費と生産活動のサイクルを「自分のペースで」まわせるようになること。その感覚をつかむことが大事だと思う。


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