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『ラストマン』第5話を視聴して個人的に思ったこと

 ※初回からはまって見ている人は読まない方が良いかも。

 先日ついに『ラストマン』を見てしまった。
 べつにドラマ事態に全く興味が無かったというわけではない。
 あの福山雅治(以下マシャと記す)が、全盲者の役を演じると聞いた時は直にビックリした。
 じつは中学の頃、実家に下宿していた従妹の姉の影響で、マシャの楽曲やラジオ番組にはまっていた時期があった。自室の壁にマシャのでっかいポスターを張っていたこともあった。そのぐらいマシャにお熱を上げていた時期があったのだ。
 そんなマシャが、自分と同じ全盲者の役を演じると言うのだ。それこそまさにじつに興味深い話ではないか。
 しかしそう思いながらも、そこまでドラマを見たいとは思わなかった。特にここ10数年、ドラマという物にどうしても興味が湧かなかったからだ。いや、興味が湧かないというか、ドラマという物が、自分の性質に合わなくなってきたからと書く方が正しいかもしれない。
 なんてかっこつけたことを書いてしまったが、実際のところは周りで流行っている物はあえて見たくないというひねくれた感情とプライドが許さなかっただけなのだが…。
 だから『ラストマン』も、ドラマに関するネットやSNSの投稿、周りの人たちから漏れ聞こえてくる話を聞いただけで充分だと思っていた。

 そんな私がなぜ今回の第5話を見てみようと思い立ったのか。
 それは第5話のテーマが「インフルエンサー」だったからだ。
 インフルエンサーは、個人的に今とても気になっているテーマでもあった。
 べつに私はインフルエンサーになりたいわけではない。それでもnoterというのも、大きく括ればインフルエンサーみたいな物ではないか。
 そんな彼らの思考や、どんな言動すると炎上に結びつくのかなど、今後全盲noterとしてひっそりと活動していく上でも、まじめな意味で興味があった。
 だからYahoo!ニュースを見ていても、人気YouTuberやティックトッカーやインスタグラマーなどの炎上の話題をついついクリックしてしまう。
 そんなわけで、今回の『ラストマン』も、インフルエンサーの現状を知る上で何か参考になるかもしれないと思い、重たい腰を上げて見てみることにしたのだ。

 で、ここからはドラマの個人的な感想をつらつらと書き連ねていきたいのだが、それに当たり、この先何の根拠も無い個人的な否定的見解がちょこちょこ出てくると思うので、特にここから先の文章は、1個人が書いた自己満足の読み物だと思って、適当にさらっと読み飛ばしていただくことを強く推奨する。

 まず第5話のような事件は、これからまじで起こりそうだと思った。
 いいねやフォロワー数欲しさに一喜一憂するあまり、虚構や殺人に走る…。
 愚かというかバカだよなあと思った。
 そりゃあ私だって、自分が投稿したnote記事にはたくさんいいねが欲しい。フォロワーだって増えてくれたら嬉しい。しかし今回出てきたインフルエンサーの彼女たちのように、noteの投稿をそこまで死ぬ気ではやりたくない。彼女たちは命を懸けるところを間違っていると思う。
 そういう意味でも私はインフルエンサーにはなりたくないなあと改めて思った。やっぱりSNSや投稿サイトって物は、数字にこだわらずに地道に投稿していくのが1番だよね。

 あと白杖をついて歩くマシャには私もおーっ!と思った。
 SNSでも言われていたように、確かにあれは折り畳み式の白杖だろう。あれと同じ音がするタイプの白杖、誰かも持っていたよなあと考えてしまったりと、全盲者を演じるマシャに親近感を覚えたのは心地よくて嬉しかった。

 だが同時に思った。
 果たしてあのドラマで捜査官を全盲にする意味あった?と…。
 あくまでもSNSなどで漏れ聞こえてくる情報を個人的に総合した範囲でのことだが、『ラストマン』で扱われている事件の題材は、今のこのご時世充分ありえそうな話が多いようだ。それらの事件を追うだけでも充分作品の価値や意味がありそうな気がするのに、なぜわざわざ捜査官を全盲にしたのだろう。
 でもこれがもし健常者の一癖も二癖もあるような普通の捜査官だったらインパクトが無いだろう。だから全盲にしたら人気が出るんじゃねえ?というような製作者側のうがった考えを感じ取れてしまったのも正直なところだ。
 もしそうだとしたら(できればそうであってほしくないが)、全盲であることが視聴率を稼ぐためのネタにされたみたいで、当事者としてはかなり複雑である。

 しかしそう思う一方で、こんな見方もできる。
 ドラマの中で、主人公が仲間と連絡を取り合っているシーンで、捜査の資料(?)を「データで送ります」と伝えたり、「9時の方向にソファがあります」と何気なく教えていたりしたのがとても印象的だった。
 主人公の周りで働いている人たちが、全盲である彼を特別扱いすることなく、彼が全盲であることをごく自然に受け入れているような気がしたのだ。
 それらのシーンに、全盲者であっても、周りから特別扱いされることなく、ごく自然に働ける、そして生きていけるんだという未来を映しているのかもしれないと思った。そんな可能性を感じて、何だか心が弾むようだった。

 『ラストマン』、いろいろと思うところはあるけれど、それでもこの作品が全盲者にとって、生きやすくて明るい未来に繋がるような良いきっかけになってくれたら、全盲者の一人としてはとても嬉しいし、切に願っている。

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