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KOJIKI<倭建命⑧>

伊服岐能山で出逢った白い猪。この猪が山神であったことに気づかなかった倭建命は神に打ち惑わされ、病に足取りもおぼつかなく彷徨ほうこうの末に、御津前みつのさきという地(現三重県桑名郡)に着き、そこに立っている松の木の元でかつて置き忘れた剣を発見し、そして尾張を思う歌を詠みます。(この時の剣は草薙の剣ではありません)

それから伊勢の能煩野(のぼの)の地(三重県の亀山市あたり)まで辿り着いたところで、故郷を思う歌を詠みます。

『倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し』
(大和は国の中でも最もよいところだ。重なり合った青い垣根の山、その中にこもっている大和は美しい)

名歌の一つですね。死期が近づいてくることを悟った倭建命は次々に歌を詠んでいきます。

『命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子』
命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山の大きな樫の木の葉を 簪として挿すがよい。

その後
『はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも』
ああ、懐かしい。私の家の方から雲が立ち上り、こちらへやってきているではないか。  

『嬢子(おとめ)の 床のべに わが置きし 剣(つるぎ)の太刀(たち) その太刀はや』

と、最期には美夜受比売の元に置いてきた草薙の剣を懐かしむ、上のような歌に詠んで崩御します。

亡くなった後には大和から后や御子たちがやってきて倭建命の亡骸なきがらに取りすがるのですが、倭建命は八尋白千鳥(やひろしろちどり)となって飛び立ってしまいます。日本書紀では白鳥になったと記されていますね。ここでの一連の和歌も現世の天皇家の行事につながるものがありましたので、少し解説しますね。

后や御子たちがやってきて殯の行事を泣きながら行なっているときに読まれた歌

①なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 匍ひ廻ろふ(はいもとろふ)  野老蔓(ところづら)
(「なづき」の田の稲の茎に、這い巡っている山芋のつる)

と歌われました。これは、亡骸を稲にたとえ、はい巡っている山芋のつるを后や御子たちに比喩し、亡き人の肉体と魂への惜別の涙にくれる様子をあらわしています。

そうすると、倭建命は八尋白智鳥となって、天を翔って濱に向かって飛んでいきました。そこでその后たちや皇子たちはその小竹(しの)の苅杙(かりくい)に、足を斬り破っても、その痛みを忘れて泣いて八尋白智鳥を追いかけられました。
その時に歌われたのは

②浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
(小笹の原は笹が腰にまつわりついて進めない。でも空を行けないから足で進むよ。)

 また、浜辺に行き、海の中でなかなか進むことができない時にはこのような歌う詠まれました。

③海處(うみが)行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海處は いさよふ
(海を行けば腰に波がまとわりついて進めない。大きい川の河原に生える草も海ではためらう)

また飛んで、その磯に止まった時に詠まれた歌は

④濱つ千鳥 濱よはいかず 磯傳ふ(づたう)
(濱つ千鳥は浜を行かずに、磯を伝っていくよ。)

と歌われました。この四つの歌は、皆その御葬(みはぶり)で歌った歌で、今に至るまでその歌は、天皇の大御葬(死者を悼み冥福を祈念する歌)で歌われています。

やがて八尋白千鳥は河内国(かわちのくに)の志幾(しき)に留まったので、その地に白鳥御陵(しらとりのみさざき)を作りました。

ここが倭建命の陵墓とされています。また、留まった八尋白千鳥はその地よりさらに天へと翔けて飛んで行きました。写真は羽曳野市観光協会のHPからの陵墓の写真です。

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次回からは、布多遅能伊理毘売命(ふたじのいりびめのみこと:第十一代、垂仁天皇(すいにんてんのう)も皇女)との間に生まれた第十四代、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)のお話としたいのですが、個人的な趣味で、もう少し倭建命に由緒のある神社のお話を続けさせてください。


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