さかき きこ

サラリーマン✖️パラレルキャリアのハイブリッドパラリーマンです。 古事記の口語訳(KOJ…

さかき きこ

サラリーマン✖️パラレルキャリアのハイブリッドパラリーマンです。 古事記の口語訳(KOJIKIニスト)、五行陰陽とキャリア理論の相関性が得意分野です。 「書いたり」、「創ったり」、「惹き合わせ」たり「種まき」をしています開運神社巡り、古代文字の研究・御神籤研究も地道にしています。

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KOJIKI<戦う皇后>の番外編

トップの写真は草場一壽先生のポストカード。「竜宮の門」です。 山口県穴門(あなと)、豊浦に宮を設した仲哀天皇。今の下関のあたりと言われています。この下関の関門海峡そばに安徳天皇や平家一門が祀られた赤間神宮があります。まるで竜宮城のようなつくりですよね。  平家物語の全部は知らなくても安徳天皇の入水のお話を聞いたことがあるという方は多いと思います。平家は平清盛の死後、源平合戦によって敗戦を重ねていきます。  そして最終決戦の壇ノ浦の戦いで敗戦が決定的になると安徳天皇の祖母

    • KOJIKI<戦う皇后②>

       崇神・垂仁・景行の三天皇は大和に皇都を持ちましたが、神功皇后の夫、仲哀天皇は、皇后に会った後、天皇は熊襲(九州南部の豪族)を討つ準備のため山口県穴門(あなと)に向かい、豊浦に宮を設けました。今の山口県の下関に穴門豊浦宮をきづきました。このとき皇后は同行はなさらず、天皇のみの出立でした。  今の忌宮神社内に石碑があります。  2年後、天皇は豊浦に来た神功皇后を伴い、熊襲を討つため軍を率い、筑紫の香椎宮に向かいました。皇后は祭庭に神懸かりする御巫となり、天皇が琴を弾きました

      • KOJIKI<戦う皇后①>

         今年は中止となってしまった、京都・祇園祭。この祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行(毎年7月17日)で最後尾を進む船鉾(ふねほこ)の恒例儀式「神面改め」というのがあります。関係者が古式にのっとり、面の無事を確認するのですが、この面はご神体の神功皇后像につけるものなのです。 YouTubeの動画もあります。 この行事を行う方は、口に懐紙をくわえなくてはなりません。それは大切な神面に息がかからないようにという配慮してのことだそうです。   船鉾は、神功皇后の説話によって鉾全体

        • KOJIKI<倭建命⑨>

          倭建命の所以のある神社を今回はご紹介します。 その一つが三峯神社です。三峯神社は今から1900年の昔、第十二代景行天皇の命を給わり、東国平定の為遣わされた倭建命が群馬県と長野県の碓氷峠に向かう途中で、妙法ヶ岳にお登りになられた時、清く美しき山河を御覧になられ、この日本の国を修理固成された伊弉諾尊・伊弉册尊の御偉業を偲び、  更にはご自身で平定された東国の永久の平穏を祈念され、二柱の神をお祀りされたのが三峯神社の始まりです。 三峯の名は、倭建命の死後、景行天皇が東国を巡幸さ

        KOJIKI<戦う皇后>の番外編

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        • KOJIKI
          13本

        記事

          KOJIKI<倭建命⑧>

          伊服岐能山で出逢った白い猪。この猪が山神であったことに気づかなかった倭建命は神に打ち惑わされ、病に足取りもおぼつかなく彷徨ほうこうの末に、御津前みつのさきという地(現三重県桑名郡)に着き、そこに立っている松の木の元でかつて置き忘れた剣を発見し、そして尾張を思う歌を詠みます。(この時の剣は草薙の剣ではありません) それから伊勢の能煩野(のぼの)の地(三重県の亀山市あたり)まで辿り着いたところで、故郷を思う歌を詠みます。 『倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あをか

          KOJIKI<倭建命⑧>

          KOJIKI<倭建命⑦>

          愛する妻、弟橘比売命への想いを残したまま、倭建命はさらに東征し、荒ぶる神をたちを服従させ、滅亡させそのまま足柄、甲斐国へと戦いを進めていきます。 新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か宿(ね)つる と、詠めば警護の火を焚いていた老人が「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」 と返したそうで、これが我が国の連歌の始まりと言われています。この歌を詠んだ老人はこののちに当意即妙をめでて吾妻の国の国造に命じられました。 そのまま、信濃を経て尾張に向かい、結婚の約束をしていた美

          KOJIKI<倭建命⑦>

          KOJIKI<倭建命⑥>

          倭姫命から 天叢雲剣をあづかった倭建命は、尾張国に入り国神の館に入りました。そこの館の比売、美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚をしたいと思い、結婚の約束をしたまま東方に赴きます。 倭建命は東国制定の暁には美夜受比売と結婚しようと思っていたのでしょう。 東国に進行し、荒ぶる神々を次々に打ち取りながら、相模国までくると そこの国造が、「この野の中に大きな沼があります。その中にとても荒荒しい神が住んでいます」 と、いうので、倭建命がその神を見たいと草を分けて沼に入ったところ、こ

          KOJIKI<倭建命⑥>

          KOJIKI<倭建命⑤>

          出雲を平定した倭建命は、天皇の元へ報告に参上しました。天皇はすかさず 「次は、東国へ行って欲しい。あちらの方にも悪い神や、暴れん坊がいて服従しないものが多いんだ」と休むいとまもなく東征の命がくだりました。 東征とは、尾張の東から陸奥までを指すといわれています。 天皇は、吉備臣の先祖にあたる御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)をお供につけ、呪力があるとされる、王権の象徴である、柊の長い矛をさづけてくれました。 この時に労いの言葉は・・・あったのか、なかったのか・・・

          KOJIKI<倭建命⑤>

          KOJIKI<倭建命④>

          出雲国は出雲建という国神がおさめていました。 この古事記のはじめの主人公だった大国主命の存在です。最初に地の国で国造りを行い、天照御神に国譲りした神様です。大国主命の国つくりのはその知的な考えと、男前な神で大変モテたという伝説からもわかるように、各地の国神の比売と縁戚を結んでいます。  その範囲は東は越(越後)、西は宗像(筑紫)に及びます。もちろん、それなりに色恋の揉め事はあったようですが・・・。 良質の砂鉄を産する出雲は古くから「たたら」という和式製鉄が盛んな国。そして

          KOJIKI<倭建命④>

          KOJIKI<倭建命③>

          トップの写真は「熊襲の穴」という場所。鹿児島県の観光サイトからのお写真です。鹿児島県霧島市の妙見温泉というところにあるんですね。 16歳の倭建命は16歳。伊勢神宮で天照大神に奉仕する叔母、倭姫命(ヤマトヒメ)の元に足を運び、倭姫命のお衣装を纏い、そして剣を懐中に抱いて、熊曾建(くまそたける)征伐の軍旅に出たのです。 折しも、熊曾建家を新築し、周辺に軍勢を三重に配した岩窟を居にして守りを固めています。新築祝いの宴がもようされるようで、宴の準備に忙しい周辺。倭建命はその時を待

          KOJIKI<倭建命③>

          KOJIKI<倭建命②>

          当代きっての歌舞伎役者、市川猿之助。「古事記」を題材に哲学者、梅原猛が三代目市川猿之助(現 猿翁)のために書き下ろしたスーパー歌舞伎の傑作、『ヤマトタケル』 ヤマトタケルの波瀾に満ちた半生を、壮大な構想で独創的なドラマとして構築した『スーパー歌舞伎 ヤマトタケル』は、昭和61(1986)年に猿之助(現 猿翁)自身の演出によって初演されると同時に、大旋風を巻き起こしました。 古事記の世界からあまたの時を経て現代に蘇る、ヤマトタケルですが、彼の悲劇は父帝の些細な依頼ごとから始

          KOJIKI<倭建命②>

          KOJIKI<倭建命①>

          今日から、「倭建命」のお話です。神話の世界の中で、彼ほどひときわ知名度が高く、人気もあって、愛情深い神様はいらっしゃらないと思います。12代景行天皇の御子で、皇子という立場にいながら、少年のころから帝の命で西征し、熊曽建(くまそたける)や出雲建を討った後、さらに東方12カ国平定を命じられた悲劇の皇子です。  トップの写真は、近江国一之宮建部神社に今年参拝をしたときのものです。こちらが建部神社のHPです。http://takebetaisha.jp/top/   倭建命のお

          KOJIKI<倭建命①>

          KOJIKI<まほろば⑤>

          垂仁天皇の皇后、沙本毘売命はなくなる時に御子の乳母として 「丹波国に住む、比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)に兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)の二人がいます。立派な方々ですから、このお二人を」 と伝え炎の中に消えました。 丹波の比古多多須美知能宇斯王には4人の娘がいたので、垂仁天皇は「せっかくだから、まとめて面倒をみようか」と4人を呼び寄せました。これには理由があって、当時の習慣としてこの種の乳母は、お子だけではなくって、パパのお世話もするので、天

          KOJIKI<まほろば⑤>

          KOJIKI<まほろば④>

          垂仁天皇にあづけられた、沙本毘売命の忘れ形見である本牟智私気王(ほむちわけのみこ)の御子はたいそう大切に育てられてたのですが、顔にお髭が生え鬚、が心臓のあたりに届くくらい大人になっても、言葉を発せません。わずかに空を飛ぶ鵠(くぐい)をみてわずかに「あぎ」とカタコトをいうばかり。 息子可愛さに、垂仁天皇はその鳥を息子のそばにおけば、息子は言葉を発するかもしれない、と思い、家臣にその鳥を追わせました。命じられた家臣はなんとまぁ、紀伊国、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、

          KOJIKI<まほろば④>

          KOJIKI<まほろば③>

          時は第11代垂仁天皇の時代です。崇神天皇の御子で名は伊久米伊理毘古伊佐知命。父君と同じように纏向に宮を構えていました。(卑弥呼の墓といわれている遺跡のある場所ですね。)あ、これから先は垂仁天皇で通しますが・・・。この天皇が沙本毘売命(さほびめのみこと)を后としていた時のことです。毘売には沙本毘古王(さほびこのみこ)という大切な兄がいました。 ある日のこと、沙本毘古王が「ちょっと、聞くけど、お前は夫と僕とどっち大切だと思っているんだ?」とたずねました。 「えー、それは、お兄

          KOJIKI<まほろば③>

          KOJIKI<まほろば②>

          さて、崇神天皇は意富多多泥古(おおたたねこ)を神主として三輪山で盛大な祭事を行い、神々を奉り祈ったところ、「天下が安らぎ栄えるだろう」との言葉通りに伝染病も収まり国が栄えました。  崇神天皇はこの時期まだ大和から東の方の支配が盤石ではなかったことから、まず北陸・東海・丹波方面に軍勢を派遣し、確実に勢力下に置こうとしていたようです。9代開化天皇の御子の日子坐王(ひこいますのみこ)、つまり崇神天皇にとっては母違いの弟ですが、丹波(古くは丹後や但馬を含む)に派遣され丹波国王の玖賀

          KOJIKI<まほろば②>