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蔵屋敷の跡

今日は曇っていましたがお散歩日和でした。今回は「大大阪」時代よりもう少し遡った時代のお散歩に足を運んでみましょう。

 私が御堂筋に通い始めた頃にはまだ、ビルの高さ規制がありました。そのため、上階からは大阪城も眺める事もできたのです。御堂筋の高さ規制。御堂筋周辺の建物は、1920年の市街地建築物法に基く百尺規制(31m)によって高さを規制していたのです。これは英国法の百フィート(約31m)に倣ったものでした。その後、数回の規制を緩和から2007年に一部の地区で1階を公共の空間とするのを条件に、後方部分の高さ制限が140mに緩和されています。其のおかげもあって本当に高いビルが沢山できました。
 中之島界隈にたてられたビル。そこは昔大御殿(蔵屋敷)があった場所です。
 スタートは、最近仕事で足を運ぶことが増えた大阪地方裁判所です。ここは昔「佐賀藩」の蔵屋敷がありました。

裁判所に片隅の芝生で人知れず顔を出している敷石。ではなくって、この地にあった佐賀藩蔵屋敷の船が通る水路の石垣です。
 この船入りは何度かつくり替えられたようです。近松門左衛門の「心中天網島」にも登場するそうです。ちなみに小春と予め示し合わせておいた治兵衛は、蜆川を渡って網島へ向かいますが、この蜆川は今は大阪の北新地の一つの通りになっています。

 さて、なまこ蔵と言われる米蔵を持つ典型的な蔵屋敷跡から見つかった遺物にはもう一つ。大量の陶磁器です。ぐい飲み、茶碗など陶器は唐津焼、磁器は伊万里焼がほとんど。朝鮮の陶工が伝えた技術によって大量生産が可能になり佐賀藩は陶磁器の一大生産地として名を馳せました。 藩はこの特産品を船に積んで蔵屋敷に送り、そこから市中に売られていきました。江戸時代に大坂で流通した日用雑器は圧倒的に「肥前もの」だったようです。
 (見学は出来ますが、かならず警備の人に断って入ってくださいね。最近は空港の搭乗口並みに周辺の警備が厳しくなっています。)

さて、大阪地方裁判所から、京阪の大江橋駅を通り日本銀行大阪支店を横切り、京阪の渡辺橋へ足を進めましょう。朝日新聞ビルが次の目的地です。
 朝日新聞大阪本社が京町堀から中之島に移ってきたのは1885年(明治18年)。伊予の宇和島藩蔵屋敷を改修した社屋でした。社屋の中庭には宇和島の和霊神社の分社が残されていました。和霊神社は山家清兵衛(やんべせえべえ)を祭神としてまつっています。山家清兵衛は、米沢の生まれ。伊達秀宗の元で、産業の拡充、民政の安定に手腕を発揮した清兵衛ですが、お癒えそうで王で処刑をされました。その後この事件に関与した者が相次いで海難や落雷で変死したため、人々は清兵衛の怨霊だと恐れ、その霊を城北の地に祀りました。それが和霊神社の始まりです。

大坂に祀れた和霊神社の分社は、大正時代に建築された新社屋でも地下1階へ移され、伏見稲荷の分霊を祀り、「朝日稲荷大明神」として社業繁栄の役目を担いました。
 1965年の社屋建て替えでも遷宮され現在の朝日新聞ビルには13階屋上に赤い鳥居の社殿が構えられました。脇には蔵屋敷の古い井戸から発見された御影石の井桁が移築さていました。このビルはいま、再開発計画が完成した今も「朝日稲荷大明神」の場所は確保されて祀られているとの事です。
(ここは一般公開はされていませんでした。)

続いて、大阪市立近代美術館へ行ってみましょう。ここは130年ほど前までは広島藩蔵屋敷がありました。諸藩の蔵屋敷でも最大級の大きさの屋敷跡が市立美館建築前の発掘調査で判明しています。
 たとえば、川から船に引き込み荷物を積み下ろした船入。有力藩しか持てない自前の港ですが、広島藩跡では堂島側につながる幅12mの水路、その先に東西51mX南北48mの堂々たる船入の遺構が確認されました。

参勤交代に赴く殿様が宿泊できるように書院や居間、台所を備えていたようです。出土品も多く家紋入りの瓦から、将棋の駒、かんざしや舶来ナイフなど続々。広島藩ではお米の他にも鉄や和紙などを専売し、その取引にはあの大坂の豪商、鴻池善衛門が仕切ったそうです。

 この大阪市立近代美術館は資金不足で大阪大学の医学部移転から20年以上も空き地になっていたのですが、皮肉にもその地下深くには大藩の繁栄の記憶が沢山眠っていたのです。
 大阪市立近代美術館のすぐそば、大阪大学中之島センターは久留米藩の屋敷がありました。塩こぶの「神宗」をご存知ですか?
 大きなお店が御堂筋の日生村方面にでき、おこぶのアイスクリームも食べれます。その神宗のラベルの絵図にかかれている『蛸の松と久留米藩蔵屋敷』がこの場所です。発掘調査の結果、畑の畝が確認され、中之島で農業が営まれていた頃がわかりました。
 そしてゴミ穴からは、伊万里焼や真鯛、スッポンの骨が発掘され、藩屋敷の食生活も垣間みれたようです。
 この藩は広島藩と隣り合わせ。ちゃんと境溝の跡もあったそうですよ。

写真は大阪市文化財協会から出されているものです。これだけ蔵屋敷があったのです。

今回最後の目的地は、中之島の一番西より。味の素グループ大阪ビルです。

ここは、龍野藩の蔵屋敷でした。ビルのエントランスに設けられた蔵屋敷関連の展示コーナーは出土品に中から琉球の泡盛徳利、伊万里焼の碗、小倉名物「三官飴」のツボ(これは参勤交代の殿様が江戸までお持ちになったようです。)
 この場所は、17世紀半ば以降、中津、宍粟、安志(あんじ)、龍野・・・と様々な藩が入れ替わり屋敷を構えました。確かに、今回一番海に近い場所なんですよね。
 龍野は古くから醤油どころで有名な場所。昆布だしから生まれた味の素のビルが後世に建つにはふさわしい場所であったのかもしれません。

この界隈も再開発で色々と表情を変えてきました。大阪にご出張の際や、市内に観光の際にはちょと古き時代の大阪を思い出していただきながら、散策をしていただくと街の表情はより生き生きと輝くかもしれません。


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