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KOJIKI<戦う皇后②>

 崇神・垂仁・景行の三天皇は大和に皇都を持ちましたが、神功皇后の夫、仲哀天皇は、皇后に会った後、天皇は熊襲(九州南部の豪族)を討つ準備のため山口県穴門(あなと)に向かい、豊浦に宮を設けました。今の山口県の下関に穴門豊浦宮をきづきました。このとき皇后は同行はなさらず、天皇のみの出立でした。 

今の忌宮神社内に石碑があります。

 2年後、天皇は豊浦に来た神功皇后を伴い、熊襲を討つため軍を率い、筑紫の香椎宮に向かいました。皇后は祭庭に神懸かりする御巫となり、天皇が琴を弾きました。これは神を招く道具です。武内宿禰(たけのうちすくね)が審神者(サニワ・神懸かりした御巫に付いて神との問答を受け渡しする役)となり、この戦について占いました。

さて、この武内宿禰。この方は、古代大和朝廷の交換で、伝説的な人物。景行、成務、仲哀、応神、仁徳と第12代から第16代までの天皇にに支え、その寿命の長こと・・・。(苦笑)このかたもお札になっている。

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これは国立印刷局からのHPです。これも、今風というか・・・

武内宿禰が、神意を尋ねると、神功皇后が神がかりをして答えました。「西方に金銀の豊かな国がある。その国を与えよう」というものでした。

 このとき天皇は、熊襲を討つなという神託を信じず、「高いところに登っても西の方角を眺めたけれども、国らしいものなんか見えなし、海が広がっているだけ。神様は何を言っているだろう・・・。」と琴を弾くのをやめてしまいました。

 それが神の怒りに触れ「何をいうんだ。お前は、この国をおさめるべきものではない。一歩道を進め」ん?道を進めとはどういうことなのか??

それはさておき、武内宿禰は神の怒りの激しさに驚いて、「畏れ多いことです。帝、やはりその琴を弾き続けてくださいませ。」と具申しました。

仲哀天皇は、琴を引き寄せ、しぶしぶ引き始めましたが、まもなく事の音が途絶えます。灯を近づけてみると、帝はすでになくなっていました。

 どうやら、一本道というのは、生きとし生けるものが、辿るべき生から死への一本道だったようです。仲哀天皇は、神の怒りに触れて、いそいそと一本道を進んでしまったわけです。

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 香椎宮の主祭神は、仲哀天皇と神功皇后の二柱。配神に、応神天皇と住吉大神を祀っています。仲哀天皇は、住吉大神の「熊襲よりも新羅に進出せよ」のご神託を信じず、疑ったため住吉大神の逆鱗に触れて急死されました。

 神功皇后は、仲哀天皇が疑った住吉大神の神託に従って、勇猛果敢に三韓征伐を行い、また、応神天皇は神功皇后のお腹の中にいるときに、住吉大神から「天皇になるべき子」といわれたため、生まれながらにして天皇になる子「胎中天皇」とも称されました。

 応神天皇は秦氏が奉じる外来神「八幡神」と習合し、全国の八幡宮・八幡神社に祀られていますがこの話はまたのちに。

 住吉大神は大阪の住吉大社で有名ですね。伊邪那岐命の「禊」で現れた三柱の神、底筒男命・中筒男命・表筒男命の総称です。すなわち、祓いの神となります。

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地図は、住吉大社のHPから。第四本宮には神功皇后が祀られています。

戦意喪失とならないように、仲哀天皇の崩御はずっと隠されたままになりました。いよいよ、神功皇后が住吉大神の神託に従って、勇猛果敢に三韓征伐に行く話です。(より道をしなかったら・・・)


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