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人間の「悪い」本質を考える ーアウシュヴィッツ訪問を経てー

2024/04上旬、ポーランド・オシフェンチムにあるアウシュヴィッツ収容所を訪問🇵🇱

ガイドは、日本語ガイドの中谷さん🧔‍♂️ 中谷さんの話し方は、「収容所で起こった事実からどのようなことが考えられるか?」を考えさせてくれる。そのガイドの中で、 ”人間の本質” というキーワードが出てきた。アウシュヴィッツでの出来事からは、”人間の本質” が透けて見える、という話だった。


そこで今回、この”人間の本質” についてとことん考えてみようと思う。




私が考えた”人間の本質” は2つ⬇️

①人は究極に追い詰められた場合、自身を守るために排他的になり得る
②人は他人よりも常に秀でていたいという競争心から、見下す相手を無意識に求める

まず①について。

《人は究極に追い詰められた場合、自身を守るために排他的になり得る》

収容所に収容された人の大半はユダヤ人だった。なぜユダヤ人が標的にされたのか?それは、戦前からユダヤ人は「虐げられる」存在だったから。アウシュヴィッツができる前から、ユダヤ人は様々な場面で差別されてきた。

そんな時、第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍がユダヤ人を迫害し始めた。ユダヤ人に手を差し伸べたら、ドイツ軍に罰せられる。怖い。人々はそう思ったのではないだろうか。中には、オスカー・シンドラーのようにユダヤ人に手を差し伸べた者もいた。しかし、大半の人々は徐々に追いやられていくユダヤ人のことを、見て見ぬふりをしたに違いない。結果、多くのユダヤ人が収容所へと送られて行った。

ここに、人間の本質が垣間見える。

人は皆、自分のことが大好きだ。自己肯定感についての話をしているのではない。災害や事件に巻き込まれた時、真っ先に頭に浮かぶのは何だろうか。「どうしたら自分は助かるか」ではないだろうか。また、自身が属する集団が非難されるような時、私たちは何を考えるだろうか。きっとその時、私たちは無意識に「どうしたら自分はこの責任から逃れられるか」を頭の片隅で試行錯誤している。

人は究極の状況へと追い込まれた時、思考のベクトルを全て自分自身へと向かわせる。自分以外の人のことなんて何も考えていないのだ。

だからユダヤ人は、迫害された。戦争という究極の状況下では、皆自分のことしか考えていない。そのような時、ドイツ軍によって脅かされているユダヤ人のことを考える人など、ほとんどいない。それが「元々虐げられていた人々」だったのなら、尚更だ。だからユダヤ人は標的にされ、収容所へと送られたのだと思う。

収容者が収容所まで乗ってきた貨車




続いて②について。

《人は他人よりも常に秀でていたいという競争心から、見下す相手を無意識に求める》

「収容者が結託し、ドイツ軍に反逆したら、多少の明るい未来はあったのではないか?」

こう考える人はいないだろうか?
ドイツ軍はこの点についても、徹底的な策を講じていた。

まず、収容者を「分類」した。宗教、職業、LGBTQ...etc 様々なジャンルごとに収容者を分け、ジャンルごとに決められた色の札を、収容者の胸元に付けさせた。
これにより何が起こったか?
ドイツ軍は時々、あるグループだけを優遇するような行動をとった。食事の量を多くしたり、仕事の負担を軽減したり。すると、優遇されたグループ以外に属する収容者たちは、その優遇されたグループに属する収容者たちを羨ましく思う。そして次第に、その羨ましさは不満へ、不満は憎しみへと変わっていく。それが同じユダヤ人であっても、だ。

また、ドイツ軍は「階級制度」を作った。収容者の中でも特に、”優秀”と認めた者に”カポー”という役職を与え、他の収容者の見張りをさせた。これにより、同じ収容者たちの間に上下関係を作った。
カポーは、自分たちより身分の低い収容者たちに暴力を振るった。同じ「収容者」であり、同じ「ユダヤ人」である収容者を痛めつけたのだ。

ドイツ軍による「収容者の分類」「階級付け」。
これらによって収容者たちは、お互いを見下し合うようになった。収容者間に、連帯意識が芽生えることなど、決して無かった。ドイツ軍の策略が成功したとも言えよう。

長々と語ってきたが、ここで私が言いたいのは「人間は無意識のうちに相手を見下す」本質を備えている、ということだ。この本質があったからこそ、ドイツ軍の策略は上手く行き、収容者たちはお互いを蹴落とし合うこととなった。もし、人間がこの本質を備えていなければ、収容者たちの苦しみは軽減されていたことだろう。

ユダヤ人の象徴「ダビデの星」


アウシュヴィッツ収容所での悲惨な出来事。
それは「人間の悪い本質」の結晶だと思う。

そして、考えてみてほしい。あなた自身にも、この本質は備わってはいないだろうか。

私は、私自身にもこの本質が備わっていることを、このnoteを書きながら自覚している。アウシュヴィッツでの出来事は決して他人事では無い。

今回述べた「人間の悪い本質」から生じている出来事は、あなたの身の回りで起きていないだろうか。アウシュヴィッツでの出来事ほどの規模ではないにせよ、心当たりの1つや2つはないだろうか。

ぜひ、一度立ち止まって考えてみてほしい。



以上、アウシュヴィッツでの出来事から私が考えたこと、そして皆さんにお伝えしたいこと、でした。

このnoteが少しでも、誰かの考えるきっかけとなればいいなと思ってます💭

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