アートの居場所:オリジナルとコピーについて

〔本来それがあるべき〕場とその独自の伝統の外にあるためにその芸術固有の歴史の外部にとどまっている、いわゆる「素朴派」の画家と同様、「素朴な」鑑賞者は、芸術的伝統の独自の歴史を参照することによってしか意味をもたないような芸術作品については、しかるべき特定の知覚に到達することができない。
      ピエール・ブルデュー 『ディスタンクシオン:社会的判断力批判』


数年前、ドクメンタを見るために滞在していた、ドイツのカッセルで面白い光景をみた。街のカバン屋のショーウィンドウで、セール品のバッグとともに、日用品でつくられた「バッグのようなもの」が一緒に飾られていた。緑色のホースが取っ手になっており、袋の部分は同じ色のビニールで、細く切り込みを入れた白い紙と茶色い毛糸の束がセロテープでグルグルと巻き付けられている。どうやらだれかの作品らしい。営業時間後の店先で、夜間照明に照らされ緑のビニールと商品のフェイクレザーがテカテカと光っていた。このウィンドウディスプレイをきっかけに、わたしは「アートはどこにあるのか?」という疑問を持つようになった。

「バッグのようなもの」がだれかの作品であるとわかったのは、値札のかわりに作品詳細が書かれたラベルが添えてあったからだ。タイトル、アーティスト名、メディア、作品サイズに制作年、価格は記されていない。まるで絵画のように丁寧にパネルに設置されていた。タイトルはTasche、ドイツ語でバッグだ。でも、どう考えても実用性はない。物を入れたらセロテープでとめられたホースの取っ手が外れるだろう。ようするに、この作品は、バッグそのものというよりバッグの形態模写だ。商品として流通しているバッグのコピーともいえる。しかし、隣に飾られている商品のバッグがTascheの原型かといわれるとそうでもない。どうみても、形はエルメスのバーキンのようで、フェイクレザーにグッチやロエベ風のモノグラムが施されている。こちらもデザイン的には複製である。

真正(Authenticity)とはそもそもなんだろうか。ウォルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」における有名なアウラの議論のなかで、たとえオリジナルと見分けがつかない完璧な複製品でも、「時間」と「空間」において「一回限りの存在」ではないという事実によって、オリジナルとは区別されると述べている。[1] 美術評論家のボリス・グロイズによれば、ベンヤミンのアウラは、物質的な問題ではなく文脈的な問題である。複製品とは、そのアイデンティティが美術史に刻み込まれることのないもの、つまり、アートの文脈を構成する「時間」(歴史)と「空間」(地理)のなかの根無し草的な存在なのだ。グロイズは「生政治時代の芸術」で、芸術作品をアートの文脈から引き剥がすことが複製品を作ることだとすれば、その複製品に新しい文脈的なテリトリーを付与することで、複製からオリジナルを生み出すことが可能であるとしている。[2]

グロイズのコピーとオリジナルの差異に関する議論は、現代アートにおける「オリジナリティ」の可能性を示唆するものであると同時に、芸術作品の価値を定めるシステムについて考えさせられる。アートを「文化的な記憶」としてアーカイブに値するか否かを決めるのは美術館である。[3]アーカイブは同じものを二つ必要としないので、美術館に所蔵されるのは決まってオリジナル一つだけである。外見は全く異なっていても、既存の作品の概念的な挑戦を再現するような作品は、複製同様にアーカイブから外される。アートの文脈を織りなす、このエリート主義的なアーカイブとそのシステムを問うことがアーティストの仕事のひとつだとすれば、グロイズが言う通り、本人がなんと言おうがアーティストの最終的なゴールは、自身の作品が美術館に所蔵されることになるだろう。アーティストも美術館も、文化的アーカイブの中に存在しない芸術を模索しているという点では同じだからだ。しかし一度美術館に拠点を移した芸術作品は死んでいく。美術史にはそのアイデンティティが永遠に刻み込まれるが、作品はナマの生活からは完全に切り離される。そしてやがて「いま」「ここ」という時間と空間から完全に乖離するとき、オリジナルもまた、アウラを喪失する。[4]

もし私が見た「バッグのようなもの」がそっくりそのまま美術館に設置されていたら、きっと鑑賞者のなかにまじって、コンテンポラリーアートとして理解を試みたかもしれない。しかし、それは味気ない作業でもある。私が『Tache』に引き寄せられたのは、その不確実さゆえだ。観光客と地元民が行き交う商店街の一角の、店の中でも外でもないショーウィンドウ。閉店後もライトアップされ、24時間だれでもアクセス可能なそれは美術館の展示品とは対極にある。ドクメンタでも公共施設や商業スペースが会場になっていたが、どの空間も「ドクメンタ会場」のラベルが貼られることで、一時的にアートの文脈に取り込まれていた。入場ゲートを越えた来場者は鑑賞者となり、監視員が見守る中、なんの疑いもなく美術史的な観点から展示品を批評できる。

しかし、このディスプレイは違う。「文化的アーカイブ」と「その他諸々のモノ」の狭間で、鑑賞と消費の狭間で、美しさと醜さの狭間で、テイストとテイストの狭間で、どこにも根ざさず漂っている。そういう曖昧なモノは、それを見つめる人間の身の置き所を問う。鑑賞者となるのか、消費者となるのか、それとも無視して立ち去るのか。自分という存在の在り処が、そのウィンドウディスプレイと同じくらい不確実であるということが突きつけられる。正体を突き止められないものは完全なる<他者>である。この<他者>は「わたしの居場所」を脅かし、わたしに緊張と混乱をもたらすものだ。このジリジリと迫ってくる何かこそが、アートが生きている証拠なのかもしれない。そして、その迫ってくる何かを肌で感じ取ることで、私自身も自分の生存を確認するのかもしれない。

Tascheの作家はクリスタ・プフォルという名前で、過去にアウトサイダーアートの展覧会に出展したことがあるようだ。「アウトサイダー」の定義はつねに議論の対象となり、アートの文脈の中での位置にも一貫性がない。作家にかんする情報が少なすぎて、確かなことがわからなかったが、ただ一つ言えることは、大文字のアートの歴史をもとに鑑賞することは見当はずれであるということだ。たとえ、この作品がアートの文脈の外(アウトサイド)にマッピングされたとしても、あのバッグを見た時に伝わってくる、テープを迷いなく巻きつけるダイナミックなジェスチャーや気ままな色使いは、ブルデュー的な「悪趣味」を意図的に作りだすハリボテのアートにはない、エネルギーがあった。

オリジナリティの本質は、「いま」「ここ」で息をしているのか、そもそも「いま」「ここ」とはいつ何処なのか、というトポロジカルな問いにある。生きているという状態の定義自体が、そして「いま」という時間と「ここ」という空間そのものが、とても不確実であるように、アートもまたホワイトキューブの外の曖昧な空間にこそ息づくのかもしれない。それとも、建築家の小林恵吾がいうように、公共空間における「しがらみと暗黙のルール」が多すぎる日本では、美術館こそがアートと人間が息を吸える場となりうるかもしれない。[5]。これにかんしては、日本で芸術教育を受けなかった女性作家の立場からすると、手放しで賛同することはできないが、それはまたべつの話だ。いずれにせよ、オリジナルとコピーのトポロジーは流動的で、「いま」も「ここ」もこの瞬間に形を変えて指からすり抜けてゆく。だからわたしは、いつでもあのウィンドウディスプレイのような混乱と緊張の塊をさがしてしまうのだ。

[1]Walter Benjamin, ‘The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction’ 1935
[2]Boris Groys ‘The work of Art in the Age of biopolitics’ in Art Power. 2016
[3]Boris Groys, On the New (Verso Books, 2014).
[4]Boris Groys, Art Power (MIT Press, 2008).
[5]Kenjin Miwa and Keigo Kowayashi, ‘Museum as the Site of Mutation’, in Gordon Matta-Clark: Mutaion in Space, ed. by The National Museum of Modern Art Tokyo and Sakurai Hiroshi (Tokyo: The National Museum of Modern Art, 2018).

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