石岡瑛子展で「わきまえない女」を考える


森喜朗の一件で、「わきまえない女」というハッシュタグがバズっている。「余人をもって替えがたい」という援護射撃や、自分のためにしか闘わない小池百合子をみていると、結局、世の中は森喜朗の金太郎飴なんだと思う。切っても切っても父権性は消えない。それでも、「わきまえない女」になります!と宣言する気が起きない。そもそも「わきまえない女」ってどんな女なんだ?「わきまえない」の実践って、食生活から一切の動物を取り除くヴィーガンの実践のようにシンプルじゃない。ポリコレに反した人間を画一的に排除していくのでは全体主義と変わらないから多様性は実現できないし、そもそも父権性のバイアスが森喜朗のジョークみたいに超分かりやすいかたちで現れることは滅多にない。

先週、東京都現代美術館へ「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」を見に行った。学生時代にグラフィックデザイナーを志した石岡瑛子は、1961年に資生堂の入社面接で「お茶汲みはしない、男性と同じ待遇を」と主張したという。80年代生まれのわたしが物心ついたときには、女性の性はさまざまに商品化されており、就職活動を通してはっきりと「女は男より優れてはならない」というルールを学んだ。いまは、そうやって取り入れたものをアンインストールしつつ、別のやり方を模索している最中だが、だからこそ、石岡瑛子の仕事に流れる自己肯定感と、それが多様な女性性への肯定につながっている様子がすごく新鮮だった。

たとえば、1975年の「裸をみるな、裸になれ」というパルコの広告や、1978年の『イノセント』の映画ポスターにみられるヌードの扱い方は象徴的だ。1975年はローラ・マルヴィが「男性の眼差し」(male gaze)という用語をつくった『視覚的快楽と物語』が出版された年でもある。マルヴィは、ハリウッド映画に登場する女性キャラクターは常に男性の鑑賞者に快楽をもたらすように描かれている、と指摘したわけだが、もっと時代を遡れば、今でこそ高尚ということになっている写真以前のヌード絵画はポルノの役割も担っていたわけで、伝統的な女性のイメージと「男性の眼差し」は切っても切れない関係にある。石岡が、女性の身体の特徴をそのままに、「見られる」のではなく「なる」という能動的な主体としてヌードモデルを登場させたり、描写のリアリティを保ったまま審美性をあげることで、女優のヌードに公共性に与えようとした行為は、生身の女性のからだを肯定することを通して「男性の眼差し」から奪還しようとしたと言える。それは、エポック的な《アヴィニョンの娘たち》のなかで、娼婦のシルエットをカクカクのファセット(面)の集合体で異化したピカソの行為とは、真逆のアプローチだ。

女性作家が女性のヌードをモチーフとして使うことについて考えていて、2017年にみたDreamers Awakeというシュルレアリスムの展覧会を思い出した。シュルレアリスムは女性をミューズ(女神)やファム・アンファン(子供のような女性)として客体化したアートムーブメントだったが、Dreamers Awakeは1930年代からコンテポラリーまで、シュルレアリスムの手法をつかう50人の女性作家で構成されていた。女性作家がシュルレアリスムの手法を用いると、モチーフの身体と作家の身体が地続きになり、個人的ななにかと歴史的ななにかが共存するようになる。形骸化したアンドレ・ブレトンのシュルレアリスムは新しい意味をもって、息を吹き返す。

そもそも女性作家にとって、女性の身体を自分の作品のなかでどう扱うかという問題は、「テーマ」ではなく「ライフ」だ。男性の眼差しよる女性表象が「伝統」である以上、それは自分の関心に応じて選択/非選択が可能な「題材」ではなく、いまここにある避けては通れない「日常」であり、作家の数だけ正解がある。しかしながら、Dreamers Awakeの展示室に、レオノーラ・キャリントンの “I warn you, I refuse to be an object.” (あなたに警告する。わたしはオブジェにはならない。)という言葉が掲げられていたとおり、男性優位な社会のなかで付与される「女性」としての役割を拒否するという態度が、展示作品の共通点のひとつとしてあったように思う。(ちなみに、キャリントンは長らくエルンストのファム・アンファンとしてだけ認識され、自身の創作活動になかなか光が当たらなかった。)ところが、石岡瑛子はちょっとちがう。彼女の作品は、男性の眼差しを否定するより先に、女性の身体を肯定することから始まる。 そこが、わたしにとってはすごく新しかったし、フェミニストたちが「わきまえない女」という画一的な理想像を作り出してしまう矛盾を乗り越えるヒントがある気がした。

男性の眼差しを否定する前に、生身の女性を肯定するというスタンスは、彼女の後期のコスチュームのシルエットにも現れている。たとえば、ファッション史において「女のシルエット」にコンセプチュアルなアプローチをした最初のデザイナーは川久保玲だが、彼女のデザインは「美しい女性」という歴史的な概念を脱構築するものなので、伝統に頼ることなしには成立しない。たとえば、有名な1997年のLumps and Bumpsコレクションでは、パッドを左右非対称に腰や背中にいれて、わざと不格好なシルエットになる服を発表したが、バッスルからパワースーツまで、パッドをつかったシルエット補正の伝統があるからこそ、コレクションの批評性が生まれた。一方、石岡のコスチューム・デザインは「誰が着るのか?」という、タイムレスな問いに比重がかかっている。これは映画や舞台の衣装であることも一因ではあるが、それでも、男性の眼差しによって理想化された「女性性」の破壊を目指すというよりは、着る人のキャラクターの多面性を想像し、表出させることを追求した結果、結果的にステレオタイプから退いている、という印象を受けるのだ。だから、ビッグシルエットが多いデザインの中にも、肌を露出したり、ボディスーツのように女性のシルエットを浮き上がらせるものがある。男にとって好ましい女の要素を解体する川久保のデザインには、そういうものは存在しない。(でもLumps and Bumpsコレクションは大好き!)

自分が求めるものに対して妥協しなかった石岡は、コンフォートゾーンから何度も旅立ったわけだが、この展覧会は、そのバイタリティが身近に感じられる展示だった。展示室に流れる石岡本人の語りは、創作活動の流動性を際立たせ、同時に、ポスター、映像、コスチューム、ドローイング、資料といった多岐にわたるメディアの作品をつないでいた。コラボレーターの名前がクレジットされていたのも、石岡をアイコン化しないというリスペクトが感じられた。そしてなにより、この展覧会の一番素晴らしいところは、フェミニズムを売り文句にしていないことだ。これはすごく大事なことだと思うのだ。いまの時代の潮流において、石岡瑛子の生き方は簡単にフェミニスト・メッセージと結びつくだろう。でも結局、そういうものは消費されていく。「わきまえない女」だって下手すれば「ガールパワー」とおなじく女性の性の商品化のバリエーションとして消えていく。だから、石岡瑛子の作品をたんなるフェミ系デザインワークとして消費させないキュレーションに、すごく希望を感じた。マッタ=クラーク展以来のアツい回顧展。図録が売り切れてたので、近所の本屋で取り寄せた。はやくこないかな〜!

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