わたしはどこ?——澤田知子「狐の嫁入り」@東京都写真美術館

顔、顔、顔。写真美術館で開催されている澤田知子の個展「狐の嫁入り」には、澤田知子がいっぱいいる。でも、同時にどこにも澤田知子はいない。ずらっと並んだセルフポートレートのひとつひとつを見つめていると「澤田知子はどこにいるのか?」という私の問いは「わたしはどこにいるのか?」という問いにすり替わっていく。

澤田は、デビュー作から一貫して「外見と内面の関係性」というコンセプトを、さまざまな女性に変装したセルフポートレートをタイポロジーのマナーで並べることで模索してきた。アート史において、女性作家とセルフポートレートという手法の関係は、とても密接なものである。写真にかんしていえば、美術評論家の笠原美智子が、『ジェンダー写真論』のなかで、70年代から現代にいたるまでの女性作家によるセルフポートレートは、既存の写真へのアンチテーゼであると述べている。女性である自分を写真に収めることで、男性が作って男性がその価値を決めてきたマッチョな視覚文化のなかで固定化された「女性」というイメージを壊してきたのだ。

この議論において、世界的に有名なのはシンディー・シャーマンだろう。シャーマンは、絵画からハリウッドのB級映画まで、あらゆるメディアに登場しそうな女性に扮装し、セルフポートレートを撮っている。彼女が化ける女性たちは強い既視感を覚える一方で、その女性をどこで見たのか思い出せないほど無個性だ。澤田がとる手法は、シャーマンのそれによく似ている。しかし、シャーマンが男性の眼差しによって作られた女性の「イメージ」を体現し、女性表象の制度的な問題に言及しているのに対して、澤田は市井の女性について言及する。澤田は、デビュー作の《ID400》の制作にあたって、友人や親戚、近所の人から服やアクセサリーを借りたといっている。つまり、彼女が化けるのは「イメージ」としての「女」ではなく、実在する「女たち」なのだ。「女たち」は、男性の眼差しのなかでモノ化された女性像を消費しながらサバイブする、能動的で多様な主体である。だから、澤田の作品は、女性作家によるマッチョな制度批判というシンプルである意味スノッブな議論の枠を飛び越えていく。

澤田とほぼ同世代のわたしは《ID400》には、強烈な懐かしさを覚えた。それは、澤田が400人分の名もなき「型」をかなり入念に研究した証だろう。彼女の作品を皮肉めいていると表現する人もいるが、わたしはそうは思えない。もちろん、平気で100人、200人に扮装してセルフポートレートを撮る実践はクレイジーで、ユーモラスでもある。でも、メイクの方法や表情の微妙な違いにこだわるところは、作家の主観性の発露というよりは、むしろ社会学者のフィールドワークみたいな客観性の現れのような気がする。そもそも、ひとつの「型」を観察し、化けるという過程は、そういう「型」をリアルに生きている女性を追体験する行為でもある。彼女はプレスリリースのなかで、ガングロとロリータに扮した《Cover/Face》について「このインパクトのあるメイクやファッションは一見個性的に見えます。しかし、塗りたくることで個性をだしている人もいれば、友達と同じようにメイクをすることで自分の個性を隠している人もいたのではないでしょうか 」と述べている。彼女は、化ける過程で、その「型」に多かれ少なかれ感情移入し、その多面性に気付いているのだ。

澤田の作品の面白さのひとつは、その化ける過程が鑑賞者から隠されているところにあると思う。ひとつの「外見」が澤田の「内面」になにを及ぼすのか、わたしたちには知る術がない。完璧に化けて、こちらを見つめている澤田の「内面」にアクセスできないから、かわりに自分がもしこういう装いをしたら何を思うのか?と自分に問うしかない。それで、澤田の体現する「型」になっている自分を想像しているうちに、いつのまにか、目の前のいろんな澤田はいろんなわたしになる。そうなると、いろんなわたしが、いろんな場所にいる気がしてくる。でもそんなことはありえないのだ。わたしはわたしで、ここにいて、展示室に入ってからずっと、大勢の澤田に見つめられているのだから。そもそも彼女たちは澤田なのだろうか?澤田知子はだれなのか?なんだかこれって、むかし、ファッション雑誌のモデルを真剣にながめていたころの感覚とおなじじゃないか?

最後にひとつ思い出したことを話したい。澤田は、美容雑誌に連載された《BLOOM》のなかで、90年代の美容雑誌には一重まぶたのメイク方法が載っていなかったと振り返っている。わたしの知り合いの女の子は、数年前、自分のコンプレックスを昇華するため、一重まぶたがモチーフの作品をつくろうと思い立ち、当時通っていた美術予備校の先生に相談したそうだ。ところが、先生に「まぶたの形なんて、そんな細かくて小さなことは誰も気にしないから、アートとして成り立たない。」と言われてしまい、彼女はそのアイデアをボツにしたという。その予備校の先生が「狐の嫁入り」をみたらどう感じるだろうか。「まぶたの形」がアートとして成り立つことを知って愕然とするのだろうか。いや、きっと、彼はわたしとは全く違うものを澤田の作品のなかにみるのだろう。

美術を教える立場にしては、その先生はあまりにも無知な気もするが、一般的にはルックスに関するトピックは個人的なもので、政治性がないと思う人も多いのかもしれない。でも、ここ数年、美容産業は男性をターゲットにしはじめており、男性用コスメをはじめ、男性向けの脱毛や眉カットなどの広告も頻繁に見かけるようになった。このあいだ美容師の人に聞いたが、女性ファッション誌はどんどん休刊していくが、男性ファッション誌は美容の指南書みたいな役割を果たしていて、盛り上がってるのだという。それを思うと、もう少したてば、身体のモノ化の問題は、男性にとってもうすこしリアルなトピックになるのかもしれないと、すこし希望的な観測をもっている。

ちなみに、知り合いの女の子は、その後、たくさんの友達に協力してもらって、一重まぶたの作品を完成させた。やっぱり作品になるかならないかは、作らないとわからないのだ。澤田の作品をみて元気がでたから、さ、わたしも手を動かそう。

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