心の旅

酸っぱい一周回った空気とゆらゆらと煌めいて揺れる灯りの夜のない街で育った。
みんなが他人のこの世界で、この東京という街の中で、ここだけは知っている人も知らない人も恥ずかしさも後ろめたさも、どこかに忘れてきたような生温かさが大好きだった。

父と母はこの街で出会ったらしい。
大学時代に一緒に映画を撮った仲間も、こっそり水筒に安いワインを入れて講義を受けてたバカなあいつも、切ない別れですっかり落ち着いてしまったマドンナも、みんなどっかで大人になってきちんと仕事をしているらしい。腹立たしい上司の理不尽に耐え、強がって後輩に奢り、家では大きくなった彼女のお腹に優しく触れる。目まぐるしい毎日の中で、みんななんだかんだちゃんとやってるらしい。なんて話を、無邪気な子どものフリをしながらこっそり聞いていた。帰りは決まって、酸味の強い音程の外れた歌と一緒にみんなで転ばないようにお互い支えながら、余計に不安定なバランスでもよろめいても、きちんと気付いたら家に着いていた。家に着いてもまだ手は温かかった。

みんなが少しずつ出世し始めた頃、私も少しずつ幼い子から年頃のむずかしい子になっていた。この街が大嫌いになった。早く家を出る、それだけを毎日考えて、この街を軽蔑すらした。よれた古着も線路下の弾き語りと警察官も夜になると増える看板も全部が濁って見えた。ここから遠くて誰も知らないところに行きたいと心から毎晩願っていた。

そんな夜も何度も明け、朝がきた頃に私はいつの間にか大人になっていた。この街で出会った彼と自然と一緒に同じ時間を過ごすようになっていた。おおらかで大雑把な、母と同じ血液型の彼は、この街が好きで古着が好きで線路下のマックでバイトしている。マックの事務所の前のいつでもcloseの古本屋の前に彼は自転車を停め、その隣の看板の男に挨拶した。孫がいてもおかしくない年頃の男だ。男はしわしわの顔でにたっと笑って「いってらっしゃい」と明るく言った。私はきっと嫌な顔をしたけど、おおらかで大雑把な彼は気付くはずもなく、「いつも集積の紙貼られると取ってくれる自転車の守護神」だと名前も知らない友人を私に紹介してくれた。昔から変わらない看板にはピンクの文字で「ハッスル!×2」と書いてある。彼は私が蔑むこの街のこの小さな入口なんて、何も見えてないみたいに、男がどこの誰で何で毎日そこに立っているのかも何も関係ないように、ただ、良い人なんだ と、一言でその男の紹介を済ませた。彼はいつもそんな伸び伸びした感覚を持っていた。それは私には持ち合わせてなく、新鮮だった。彼の柔らかさに惹かれたことを思い出した。

それから3年が経った。いつの間にか私も友達に怪訝な顔をされても、彼のあの時の紹介文通りに名前を知らない友人を紹介するようになった。ずっと守られていたことに気付かなかった幼さと色んなことに気付くようになってしまった潔癖さの両方を受け入れられるようにもなった。結局私はまたこの街がどうにも嫌いになりきれなかった。父と母が出会った街。飲んで歌ってよろけて帰った煌めいて揺れるこの街。私と彼が出会った街。

父は「人生は旅だ」と言った。
あの頃のみんなは、もうすっかり50を過ぎたいい大人だ。ずっとみんなあんなにもバカで楽しくてくだらないけど捨てられない愉快な記憶を心のボトルに詰め込んで、いつかまた、いつかまたみんなで、とキープして、年に1回や2回、大人になった今は嗜んでる。

今夜だけは、今夜はまた。
明日、たとえ僕が汽車に乗っていようとも、と。

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