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『西武沿線の不思議と謎』を読んで その3

皆さん、こんばんは。飯能高校探究部 顧問のMr.Mです。

以前、探究部員の妹紅がその昔実在した天覧山駅について記事を書いてくれました。そのことがきっかけで、西武線に関する書籍を調べています。

そんな中、飯能高校のすみっコ図書館で見つけた『西武沿線の不思議と謎』という本。

この本の中で飯能について書かれている部分を紹介してきました。

今回は飯能駅の「スイッチバック」、さらには飯能市で計画されていた「短絡線」についてです。

飯能駅のスイッチバック

まず、飯能駅のスイッチバックについてです。

飯能駅のホームまで来たことがある方はおわかりだと思いますが、飯能駅は列車が通り抜ける途中駅の構造ではなく、終端駅のように櫛型ホームとなっています。

そのような構造なので、例えば西武秩父駅まで行こうとすると向きを逆にして次の東飯能駅へと向かうことになります(特急ラビューに乗っているとこれを体感できます)。これがスイッチバックです。

そもそもなぜスイッチバックが取り入れられたのかがこの本では書かれていました。

やはり、路線の開通当時は飯能駅が終点だったことに由来しています。以下、本文より抜粋します。

飯能駅は1915(大正4)年4月15日に、西武の前身企業の一つである武蔵野鉄道の駅として誕生した。当時の飯能町は、木材や砂利、織物などを産出しており、埼玉県西部では川越町に次いで発展した町だった。物流や旅客輸送の便を図るために、飯能町と東京を直接つなげようと、飯能町の有力者らが武蔵野鉄道を計画し、さらに地元出身で横浜屈指の実業家となっていた平沼専蔵(ひらぬませんぞう)の出資を仰いで実現したのである。
それだけに武蔵野鉄道としては、飯能町まで路線をつなぎさえすれば十分であり、さらに西へ路線を伸ばすことは考えていなかった。

ではなぜ池袋線を延長する必要が出てきたのかは「吾野」がキーワードとなります。

これを読まれている方の中にも、なぜ西武池袋線が池袋から吾野までなのか不思議に思った人もいるかもしれません。

秩父市に住んでいる方ならば、なぜ終電が吾野駅止まりなのか不思議に思ったことがある人も多いと思います。

理由がここにあります。

ところが1929(昭和4)年9月に、吾野へ至る延長線が開通した。これは、当時武蔵野鉄道の大株主となっていた浅野セメントからの要請によるものだった。浅野セメントはそれまで青梅地方の石灰石を東京や川崎のセメント工場の原料としていたのだが、業界での激しい競争のなかで吾野の石灰石に着目し、その運搬手段を確保するため武蔵野鉄道の経営権を握り、鉄道の延伸を計画したのである。
ところが、路線を延ばそうにも、飯能駅の北西側である吾野方向には入間川や天覧山があり、そのまま延ばすのは困難だった。そこで、迂回して高麗川沿いを走り、吾野方面へ向かうことにした。このため、スイッチバックが取り入れられたというわけである。

吾野の石灰石がそもそもの理由とは。歴史的背景を知ると納得です。

幻の短絡線

先ほど飯能駅のスイッチバックについて、また池袋線が延長されたのは吾野がキーだった事をお話ししました。

吾野から石灰石を運ぶ貨物列車の場合、列車の方向を変えるには機関車を付け替える必要がありました。そして、この付け替え作業は効率が悪かったが故に短絡線が昭和末期に計画されています。

以下、本文より抜粋します。

飯能駅を通らず、その手前から次の東飯能駅へ直接つなげる短絡線が昭和末期に計画された。用地の買収が進み、あとはレールを創設するだけという段階まで達したものの結局、計画は中断された。鉄道による貨物輸送の需要が減ったためだ。

計画されていた短絡線の場所は池袋方面から飯能駅に入る手前の右側の右にカーブしていく空き地、ということでGoogle Mapsで調べてみました。

ここですね。上空写真では空き地になっていますが、カーブの形、そして東飯能駅へ向かっていることから間違いないと思います。

もしこの短絡線が早い段階で開通していたら飯能よりも東飯能駅を中心に街が発展したかもしれません。

歴史のタイミングというものは非常に興味深いです。現在ある状況がいかにしてつくられたのか知れば知るほどおもしろいですね。


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