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オオカミと人間 バリー・ホルスタン・ロペス

OF WOLVES AND MEN
Barry Holstun Lopez



「『大いなる霊よ、私の声をお聞き下さい!私はオオカミの皮がほしいのです。オオカミのようになりたいのです。』」




「うわぁ、きったねェーーーー。」

ぼくは思った。

この本ときたら何やらシミにまみれていたんだ。
じっさい「本の虫」が住み込んでもいたさ。

1984年翻訳初版のこの本は古かった、そして中古しか手に入らない。
そんな時代遅れ(科学書では致命的)で人気のない本にいったい何があるってもんだ。
ぼくは本を手に取るのを躊躇した(未知の病原菌でもいそうなんだ)。




「こんなすっばらしいオオカミ本はねえ!!!」

またも脳内スパークを起こしアゲアゲで踊り狂うぼく。

「また落っこちる前にカンポウ飲んどいてよ」

隣人は言う。



ぼくが今まで読んだオオカミ本は、大きく二つに分かれていたんだ。
「科学者」目線と「奇人」目線だ。
この本は科学者による「観察のみ」でもなく、奇人による「仲間として」でもない。どちらも面白いことがわかるんだけどカナシイカナこの両者は仲良くない。ゆえに「オオカミ」という生き物を知るための仲間として協力しないという。

そんなバラバラにオオカミを愛するニンゲン、オオカミを憎むニンゲン、ただただオオカミに悩まされて困っているニンゲン、そして、オオカミを敬うヒトの話も聞き、まとめたのがこの本だ。

オオカミと人間(Of wolves and men)というタイトル。
この「men」の中には色んなニンゲン(ヒト)が含まれている。
そう、彼はいろんなニンゲン(ヒト)の話を聴く者、3つ目の目線を持つ「ジャーナリスト」なんだ。私情を入れず多角的で公平な見方により「真実」に近づくのが仕事だ。


「オオカミについて深い知識を得ようと思うなら、エスキモーのものの見方を知ることが必要だろう。オオカミもおそらく、エスキモーに似た目をもっているからである。私たちはオオカミとは話ができなくても、エスキモーとなら話せる。」


「オオカミの目線」!!!
エスキモーもインディアンも狩猟民族として、オオカミ目線でものを見ると言う。


「ヌナミウト・エスキモーの観察が鋭いのは、彼らがつねに細心の注意を対象に向けるからであり、また文字に基づかない文化の保有者としてすばらしい記憶力をもっているからでもある。」


文字というものは、「真実」を伝えるのが難しい。
ぼくら人間様が世界を歪んで認識するのはそのせいだ。
さらに機械になんでも頼るようになったぼくらは、己の能力を失っていく。
記憶力もそうだ。電話番号ひとつ覚えられやしない。
視力も。遠くのものなんか見えやしない、たぶん色彩感も乏しくなったろう。
持久力。集中力。ぼくらはそんなに走れない、力もないし我慢もできない。すぐに飽きてより強い刺激を求める、ヘロヘロのジャンキーなんだ。


文明化によって得た能力ももちろんある、けれど「生物」として失ったものが多すぎる。
ぼくら文明人は彼らの「生の原理」を理解するのが難しいという。
文明化されたぼくらの生活がそれを必要としなくなったからだ。
ほとんど「退化」だろう、残念ながら逆戻りではなく、衰退の方だ。
生き物は、世界は、宇宙は繋がっていることすら忘れてしまった。


「顔や体の目立つ部分は、姿勢によるコミュニケーションを明確にする。ちょうど人間の女性の口紅が唇を、アイシャドーが目を強調するように」


よくある白地に黒っていうオオカミの毛色の黒い部分はボディランゲージを際立たせる役割があるらしい。
昔から「ヒト」が化粧を施すのを不思議に思っていた。
目から鱗だ。
そう、彼ら、「ヒト」も「オオカミ」もボディランゲージが重要なんだ。
黒いオオカミが神経質だというのもこれに関係あるのか。
彼らは身体全体で話す、自分の気持ちを表現する、嘘はつけない。
ポウくんの美しい模様を思い出す。
興奮で背中の毛が逆立つ時、彼の黒い模様が立ち上がった。
どうして白い毛の先端だけが黒いのか。
そう、お化粧だったんだ。
彼の表現を際立たせるためのものだ。


「死の対話には、適切な死への努力がある。私は生命(いのち)を生きつくした」

「狩るもの」と「狩られるもの」との間で「死の対話」は交わされる。
死に向かって彼らは適切な努力をするという。
彼らにとって「死」は神聖で名誉あるものだ。

彼ら(狩られるもの)は言う、

「死ぬ用意はできている。私は唯々として死ぬ。なぜなら私が死ねば他のものが生きていけるからである。…私の時が終わったから、私は進んで死を受けいれるのだ」

狩る側のオオカミも家族のためにこのような態度をとる。
エスキモーもインディアンもそうだ。

ぼくら人間様とは「自己の認識」が違うという。
彼らは「死」を恐れない、死は「終わり」ではないからだ。
死は次に繋がることなのだ。

ぼくはそこに「ヒト」を見た。
他者と繋がる、土地と繋がる、地球と繋がる、宇宙と繋がる生き物だ。
人間様以外の生物は、みんな、そのように生きて、死んでいる。
アイヌも同じようなことを言っていたな。
生きる意味についてだ。
生きる意味は「個」の中には存在しないのだ。


ぼくも彼らのようになりたい。
「オオカミ」のように。
「ヒト」のように。


「ここに人間を殺すことのできる動物がいる。それは、伝説めいた耐久力と精神力をもち、また自らの環境と驚くほどよく融和できる動物である。これこそ、挫折感に満ちた現代のハンターが好むものである。そこには彼が心に描いていた高尚な資質と、世界との一体感とがある。狩猟家自身もオオカミになりたいとさえ思うのである。」


そう、人間様に成り下がったぼくらは、「オオカミ」に嫉妬しているのだ。
嫉妬に狂って彼らを憎んでいるんだ。

むろんこの本にも、オオカミを語る本には必ず、「人間様」がオオカミにしてきた邪悪な所業のあれこれが記されている。この残虐行為はぼくら人間様が決して忘れてはいけない人間様の邪悪さがこれでもかってほど記されてる。
ロペスさんの言うように「自分もそうしたかもしれない」んだ。
「奴らは邪悪だ」、ではなく、そう曰う人間様のなかにこの「邪悪」は存在する、例外はない。
そのことを決して忘れてはいけないんだ。

この自分も含めて「ニンゲン」と言う生き物についてぼくは吐き気をもよおしてきたってもんだ。
今までさんざん読んできた。
このブサイクで邪悪な「人間様」が他の美しい生き物たちに何をしてきたかを、特に「オオカミ」にどれだけ邪悪な行いを「正義」のもとに行ってきたのかを。いつだって「正義」は至る所で行われている、「正義」は信用できない。

ぼくの知っている人間様は金のことしか頭にない貪欲で腹黒い奴らでこの地球どころか、宇宙までも蝕んでいる。
地球は終わりだ、絶望的だ。
どうしてぼくは人間として存在するのか、どうしてオオカミではないのか。


けれど、「ヒト」という生き物は、失敗作じゃなかった。
ロペスさんのおかげでぼくのニンゲンに対する偏見が払拭されたってもんだ。ぼくは「ヒト」を知らなかった。

ロペスさんは記す、エスキモーと、インディアンのことを。彼らはアイヌとも似ている。
ぼくは思う、彼らこそが「ヒト」であると。




「『私がオオカミと同じく、世界にうまくなじむように、世界にとって価値あるものとなれるように、どうかお助け下さい。』」