未来の話

ぼくらはいつからか未来を想像しなくなった。新しいSFはもう久しく生まれていない。1999年も2001年も2003年も、もう昔。恐怖の大王はやって来なくて、宇宙の旅はまだまだ(そういう話じゃないか)、アトムは生まれなかった。2112年はまだ先だけど、引き出しから誰も出てこないのだから、きっと。

ぼくらは今SFだった未来を生きている。電子レンジなんて最高にSFチックだ。遠赤外線で自動的に調理するなんて!宇宙にも当たり前に人がいる。空を見上げれば、見えなくなった星の変わりに人工衛星が飛んでいて、立体物をコピーすることだってできる。でもそれはあまりにも当たり前にあるし、これから当たり前になっていくものにしても。

叶いそうな夢や叶った夢にはあまり関心がなく、かと言って叶わなかった夢はもう諦めていて、ぼくらはいつからか未来を想像しなくなった。

別にいい未来ばかりじゃない。悪い未来の想像もぼくらはしなくなった。1999年は多分決定的だったろう。第三次世界大戦も核戦争もサードインパクトもない。頭の中では何度も世界は壊れ終わりを告げていた。それももう昔。世界は壊れることもできなくなった。
勿論、第三次世界大戦はいつ起きるかわからない。テポドンが飛んできて、日常は消し飛んでしまうかもしれない。そんな可能性もわかった上で、ぼくらは未来を想像しなくなった。

SFはフィクションであったが、ファンタジーでもあった。今ここの世界とは違う、「向こうの世界」。しかしあまりに毎日が死に近すぎて、死も非日常もみんな身の回りに見つけてしまう。向こうを見る視力がぼくらにはもうないのかもしれない。

身の回りにある小さな幸せを見つけて生きていこう。それは素敵なことだろう。でもでっかい幸せの方がずっと欲しい。欲望は変わらない。だからぼくらは悲しい目をする。白馬の王子様は今だって待たれている。たぶん。

子どもの頃から今までにいろんな物語やお話や事件や噂やを聞いてきたから、別に今更何が起きても驚くことはない。日々いろいろなものが生まれ生まれず、変わり変わらず、そうして未来がどんどん当たり前に今になって過去になる。同じように当たり前のようにそれは過ぎていく。未来はずっと先の、途方もなく先のものではなくて、それはいつか来て過去になるものということがぼくらにはわかってしまった。

ぼくらなんて言い方は勝手かもしれない。でもみんなじゃなく、ぼくらなのだ。だから全員と言うのではない。ぼくの知る限りの人や考えや知識は未来を想像しなくなった。ぼくなんて言い方もホントは違くて、俺は俺と言うし、じゃあぼくって誰のことなんだろうとか。そういう話をしたいわけじゃない。

震災でやってきた津波はまるで世界の終わりみたいだった。原子力発電所の爆発はよくわからなかったけど、でもやっぱり何かが終わった気がした。

未来を想像しないぼくらは、未来の子どものためにという言葉もピンと来ない。未来は何が起こるかわからない。何が起きても不思議ではない。何が起きても驚かない。だからぼくらは未来に期待もしない。がっかりもしない。未来は当たり前のようにやって来て過去になる。ぼくらにとっての未来はいつか来る今で、いつか成る過去でしかなくて、未来が未来としてそこにいる何てことをぼくらは想像できない。

何のために生きているんだろう。と考えた幾億の若者たちは、何故考えるのをやめたのだろう。
その考えをするのは今と過去ばかりが見えて、未来がよくわからなかった時かもしれない。だとしたら、今を生きるぼくらは「何のために生きているんだろう」といつまで思わなければいけないのだろう。

退屈、不信、諦念、失望、絶望、気だるさ、、、いつの時代の若者だって持つ自己愛的なため息。を、若くなくなった後も持ち続ける人がこれから幾億も生まれ、そうして世界が少しずつ悲しくなっていく。ぼくの想像力が頑張って想像できる未来はそんなものだ。そしてそんな未来が今にやって来て、そして過去になっても、ぼくはきっと何も思わないだろう。

喩え話。信じてやまない何かもないから、地動説も進化論も自然に受け入れていく。

ぼくらが未来に思うことはこういう大人にはなりたくないとかそういうことだ。それは未来の話じゃなくて今の自分の話だ。というか今のことだって思っているのだろうか。時代とか世代とか何か思うことがあるだろうか。
ぼくは今ぼくらという言葉を使っている。だから多分それは今という時代にぼくらという世代を考えているのかもしれない。

ユートピアもディストピアもぼくらにはない。ぼくらはずっとここにいるしかない。そういう諦念がぼくらだ。ジャッキーチェンを見て強くなったり、メリーに首ったけを見て恋に憧れたり、ミッションインポッシブルを見て壁に隠れてみたり、コーヒー&シガレッツを見てカフェでカッコつけたり、そうして今いるここを少しずらすことしかぼくらにはできない。
それでまた元通り。いつもの毎日。向こう側なんてない。これが近代的自我の成立ってやつか!?びっくりぼくらは近代人だ。ネアンデルタールでもホモサピエンスでもない。
希望がないんじゃない。未来に対して何も思わないだけだ。未来人が突然家にやってきても驚かない。止まり木にあのハリソンフォードがいたら驚く。ぼくらが想像し夢を抱けるのは今のことばかりだ。

こういう話をしているぼくらが想定している未来というのは、あまり良くない未来だったりする。外に出て急に車に轢かれて死ぬかもしれないとか、ドアを開けたら家の中に泥棒がいて私の大事な下着を漁っているとか。ぼくらの未来への少ない想像力は、少し先の未来の悪いことしか想像できない。
今の話も昔の話も何だかつまらない。(勿論それが恋するあの娘から出る話なら別だ。)だから少し先でもいいから未来の話をしたい。それも良い未来を。悪い未来が来ても驚かないけど嫌だ。でも良い未来が来たら驚かないけど嬉しい。だからそれだけの理由で、少し先の良い未来を想像してみようと思う。

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