諦めた夢

 家族の為に夢を諦めた…と言う人がいる。
 本当は画家になりたかったとか、ミュージシャンになりたかったとか、引き合いに出されるものの多くが、芸術に纏わる道であったりする。
〝芸術では食えない〟
 必ずしもそうではないと思うのは、実際、芸術で食っている人も大勢いるからだ。しかし狭き門であることには違いないのであろう。  
 芸術への道を諦めた理由が、例えば本人の意思から遠かったりするのは、周囲の環境が関係しているせいだ。親、きょうだい、夫や妻、子どもなど、その他遠縁の親戚筋や、友人・知人に至るまで、その人がどんな環境に生きているかによって、理由なんて幾つでも生まれる。
 しかし、人のせいにするなと言いたい。夢の多くは、追おうと思えば追えたりする。代わりに捨てなければならないものはあっても、夢を第一に考えれば、それは生きている限りいつまでも追える。夢か現実か、選択を迫られた時、現実を選んだからこそ夢を捨てるに至った…ということに、多くの人は気付いていない。たとえ気付いていたとしても、現実に責任転嫁することで、自分以外のもののせいにしているに過ぎない。
 夢を捨てる理由を、切り難い血のせいにするなら、最初から血を繋いでいくことなど、選択肢に入れるべきではないように思う。親のせいにするな。伴侶や子どものせいにするな。夢の為にそれらが妨げになるのなら、それらを捨てれば良いだけだ。
 捨てられないのなら、最初から得よう思わないことだ。夢に出逢う以前から存在した親やきょうだいならまだしも、結婚し、子どもを作っておきながら、家族を養えないから、夢を諦めて会社勤めをした…という類の話が幾つもある。自主的に家庭の礎を築いておきながら、自らの夢や自由を、それによって奪われたと錯覚しているところが、あまりにも滑稽だと感じる。
 人間は欲張りだ。夢だけでなく、愛も金も得ようとする。完璧な人生を望んで、ひとつでも多くを手に入れようとするからだ。
 幸福追求権は誰にでも与えられた権利である。しかし、個人の選択ミスによって、他人の幸福や心の安定を奪い、脅かす権利は、誰にも与えられていない。
 夢を追うのは自由だが、夢を選んだ時点で覚悟は決めなければならない。良心を捨ててまで追える夢なら、それは本物だし、本物でなくとも、本物になる素質があると思う。
 徹底的に悪者になるがいい。何かを捨てたり、犠牲にする必要があるのが夢なら、それぐらいの覚悟は必要だ。
 血を選んでおきながら、夢を諦めたなどと寝惚けた表現をする人間を、私は好まない。血は、夢の代償になる以上に尊い。そのように嘯くなど、血に対して失礼である。
 夢を追う為には、孤になるだけの覚悟がいる。それだけの潔さを持って生きようとするからこそ、夢を追い続ける資格がある…と書けば袋叩き遭いそうだが、夢を追う覚悟を維持出来ずに、誰かのせいにしているような人には、私…多分負けないと思う。

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