受け入れるということ

 もうかれこれ四年近く、慢性の蕁麻疹に蝕まれている。
 事の発端に心当たりはあるが、実は発症する一年前から、その予備軍とも言える兆候があった。しかし、私はストレスと蕁麻疹の関係性を、知識として持っている人間ではなかったし、実際それは、冬場、布団に入ると全身の痒みにのたうち回って眠れない…というものであった為、表面上に発疹などが無いことから、冬の乾燥肌が原因かと思っていた。しかし、市販の痒み止めで何とかしようと塗布を試みる私の皮膚は、決して乾燥していなかった。
後で友人に言われた。
「多分、体の中で蕁麻疹が出てたんやろうな…」
 そんなことってあるのか?
 彼女は私より、医療の知識を持っていたのかも知れないが、体の中で蕁麻疹が起こるなどということを、私はその時初めて知った。唯、私の蕁麻疹がストレス性のものであったとしたなら、充分に納得出来るだけの環境の只中に自分自身が居たことは、間違いのない事実であった。
 心当たりから通院が始まり、今、抗アレルギー薬を服用する量は、当初に比べるとようやく三分の一に減っている。一日二~三錠飲んでいたのが一日一錠に減り、今は少なければ一日半錠で済むこともある。(因みに、一日四分の一錠ではまるで効果が無く、それ以上減らすのは諦めた。)
 また、腹痛など、体の他の部分の調子が悪い場合、それを緩和する薬を飲むため、常用している抗アレルギー剤を控えてみたりするのだが、その場合、不思議と蕁麻疹は出なかったりする。
 それでも毎日飲まずにいられないのは、飲んでいないことを思い出したり、疲労が蓄積した折には、やはりその都度場所を変えて、猛烈な痒みと発疹が私を襲うからだ。
 服用期間が長いため、実際慢性の痒みなのか、薬の副作用なのか判らないこともある。抗アレルギー剤の副作用に因って蕁麻疹が発症する場合もあるというから、大混乱だ。
(薬剤師に因ると、その確率は相当低いらしいのだが…)
 しかし先日、ふとした折、薬を飲まずに済んだ日があった。その日以来、相変わらず薬を必要とはしているが、痒みの発生する範囲は随分狭まっているように感じている。
 気のせいかも知れない。でも、気のせいではないかも知れない。もうこの際どっちでも良いのだが、その折とは、私の中身が大きく変革した日であったという事実なのである。
 
 今、私は仕事をしていない。無職になって十日目だが、その前に、有給休暇を使って一週間早く職場を去ったため、既に半月は自宅でだらだらしている。
 それを自慢したいのでは決してないし、自慢できるようなことでもない。
しかし三年前、同じく無職を経験した私は、ある程度の評価を受けながらも、したい仕事に復帰出来ないジレンマと、先の見えない求職活動への不安から、暗闇の中から将来を見据えることに絶望し、完全に鬱と闘っていた。
医者にこそかからなかったのは、あらゆる本を読んだ結果、薬で何とかなるものではないという自己判断を下したせいだ。
 先日たまたまテレビで、『ツレがウツになりまして。』という映画を見たのだが、主人公のツレ役である堺雅人さんの姿は、当時の私と殆ど同じであった。
 その頃の恐怖を未だに忘れることの出来ない私は、無職になることが恐ろしくて仕方がなかった。それ故、職場を去ることを決めると同時に、転職先に目星を付け、就職試験を受け捲ったのである。
 したい仕事が幾つかあり、中には一年以上前から受験を決意していたものもあったほど、心構えは万全であった。しかし、どれに受かってもどれもしたい仕事…という三つが、まさかの全滅。想定外の結果となり、私は完全に路頭に迷うこととなる。
 そのうち一つは、最後に勤めた職場の別の部署だったことで、言わば第一希望とも言え、慣れた環境だったことと、自らのスキルアップを目指し、将来を見据えて選んだ職種だったこともあり、チャンスを手に出来なかったことは、激し過ぎる落胆を招いた。しかも、集団面接における敗因が、未だにハッキリしないのである。では勝因は…と言われると、それもハッキリしない。三人受け、一人が落ちる…ということは事前に解っていたが、三人とも筆記試験に合格した後の面接だった為、査定は面接で成されるのが、本来の姿であろう。頗る難しい面接試験であったが、合格した二人が、脱帽さながらの素晴らしい答弁を繰り広げたわけでもなく、私が大きなミスをしたのだとすれば、それすら思い当たらない、何とも曖昧なものであった。
 いずれにせよ結果は結果で、それに対して異議を唱えるほど自分に自信がある人間でなかった私は、とにかく再就職することを目先の目的に、遠方で待遇も下がるが、それでも同職種の募集を見つけたことを幸いとし、若干の迷いを感じながらも追加でその面接に臨んだ。しかしこちらも不合格という結果が届く。私はパニック寸前であった。
 未来に希望を持って、したい仕事をする為に、思い当たる挑戦は全てした。しかしどれも結果が出ない。では何をすれば良いのか。したくもないことで妥協するか…そんなことが出来るとは思えなかった。
 既に、前回の求職活動の際、僅かな収入を得るために、妥協して働いたことがあったが、心の闇を深めただけであった。
 そもそもしたいと思っていない仕事に応募した時点で、採用されるほど甘い世界ではない。
 世の中には、生きて行くために職を選ばない人がいる。友人にも〝生活のため〟〝子どものため〟と言って、心身を削り落とし、ぼろぼろになって働いている人がいる。私の考えは甘いのかも知れない。しかし、心を犠牲にして再び鬱の世界へ帰って行くことが自分にとって正しいことだとは、とてもじゃないが思えなかった。
 私は老齢に差し掛かりながら、未だ健在で居てくれる両親に感謝しながら、再び職を失うのを覚悟する他なかった。
 
 退職までの日々の残りを、私は数えながら過ごした。
 試験に落ちたことは人から人へと伝わって、私からは話していない人にまで「次どうするか決まったの?」と訊ねられるのには吐き気がした。私は前向きを装い、笑顔での対応を変えなかったが、休日を挟む度に、気力が萎えていくのは止められなかった。
 ある時、ひたすらカウンターに向かって軽作業に集中していた私は、一人考えていた。自分はもう死ぬしかないんじゃないかと…。死に方を考えたのではない。絶望した未来から、光を見出すことが出来なくなったことから、死ぬ以外の未来を生み出すことが出来なくなったのである。
 以前働いた職場で、役所の事務員として定年を迎え、天下って再任用の嘱託職員となって働いている人が居た。公務員の世界では、年金を手にするまでの五年間、生活して行くために仕事を得ることが保障されているという。
その人は言った。
「もう、お金なくなったら死んだらええねん」
 不穏な言葉にギョッとする。悪い冗談だが、そういうシステムならどんなに良いか…というのである。
 確かに、この世で生きて生活して行くには、多かれ少なかれお金が必要だ。お金がなくて働く気があっても、仕事が無ければお金は手に入らない。「お金なくなったら死んだらええねん」は、生きることの代償にお金が必要なら、無くなると共に生きることからおさらば出来る方が、いっそ楽だということなのであろう。恐ろしいことではあるが、考え方としては決して間違ってはいないと思う。
 では、働く気があって、しかし仕事が無く、何とか妥協に努めて他の仕事に就いたものの、手に入るお金が最低限も無い上、それが心身に苦痛を強いるものだとしたならどうだろう。生活が満足に営めないばかりか、遣り甲斐も働き甲斐も無く、心と身体が病んでしまうようなものであれば、その人の人生とは一体何なのだろう。生きる=お金のために、魂を犠牲にして働くことが、果たして本当に生きる意義に繋がるのか…。
 しかし現実は、仕事が無くなる=お金が無くなるという将来を想定した時点で、もう生きていなくて済む…と未来を棄てられるような世の中ではない。人生何があるか判らないから、毎日元気に働き、楽しく遊んで、生き生きと過ごしていたとしても、明日事故や災害に見舞われて死ぬかも知れない可能性は誰にでもあるのだが、多くの人がそのような危機を意識的に想定しながら生きているというのが現実ではない。大体の人間は、昨日を生き、今日を過ごしたら、明日も生きるのである。
 私も、路頭に迷ったからといって『明日には死ぬかも知れないから、もうお金など必要ないし、働かなくても良い。だから仕事を探す必要もない』とは思えない現実に生きているから、絶望から抜け出せないのだ。
 周りに人は溢れているのに、私はひとり孤独であった。自ら職場に見切りをつけた人以外は、皆次の年も継続して働く人ばかりである。其々明るい未来を前に今を生きているのに、私にだけは明日が見えない。路頭に迷うとは、生きて行く場所がわからないということであった。
 周りに意識を向けることが辛い分、そこから逃れるように、心の目は自分自身へと向けられた。
『何故自分はいつも駄目なんだろう…。どんなに一生懸命働いて、信頼や評価を受けても、どういうわけか職場の中では認められない。これ以上何かを求められても、出来ることがないくらい、頑張って来たはずなのに…』
 考えながら、幾つかの言葉が蘇る。
「この世界は、正規が楽をしたいから臨時を雇うねん。本当に相手のことを思うなら、いつまでもこんなところで臨時職員なんかせんと、〝もっと良いところで働け〟って言って、外へ送り出すはずや」
「自分が頑張って来たと思ってることが、正規にとって頑張ったと思えることとは違ったんやろな…」
「仕事をさぼろうが遊んでいようが、正規は守られる。同じことを臨時がしても、組織は守ってくれへん。それをおかしいと感じて沿われへんのやったら、臨時の自分がこの世界から去るしかない」
 すべてこの職場に来てから言われた言葉であった。
 私は長く公官庁に関わる組織に於いて、アルバイトや嘱託職員といった臨時雇用者として働いてきた。職業柄、雇用形態の差を剥き出しにして働けるような場所でなかったこともあり、専門職としての意識を強く持って業務に従事してきたことから、〝働かない正規職員〟に対する不満は、膨れ上がっても萎むことはなかった。 
 住民にとって平等であるはずの行政が、不正とも取れる軽率な行いを平気でする姿を嫌悪したし、経験を積んで指導的立場を取ろうとするベテラン職員達の行動と言葉がちぐはぐなことも、まるで理解出来なかった。
 基本的に私は、他者への不満を、当人に口に出して言えるタイプの人間ではない。精々溜め込んだ挙句、ごく内輪の本当に理解してもらえる友や身内に愚痴って発散させるのが関の山だ。
 しかし、それでは収まらない時があった。四六時中目の前で憎まれ口を叩かれ、仕事の妨害に遭う…常に否定され、傷付けられ、役割以上の責務に問われながら、不当とも取れる指示や命令に従うことを強要される…。それがまさに、蕁麻疹発症当時の私の状況だった。今考えると、モラハラやパワハラとして訴えることも出来たのではないかとも思える。流石に黙って耐えることは出来なかった。私は戦う覚悟で抗議に出る。それでも収まらず、上司に直訴した。自分の力で収拾出来る類のものという範疇を越えた、悪質さから、脱却を試みたのである。
 その年、雇用契約を終えて私は退職した。しかし、人間関係の苦を無視してでも、再び働きたいと思えるほど、他の部分では最高に恵まれた職場であった。私の働きを見、仕事に対する姿を評価して、復帰を望んでくれる人たちに呼応するかのように、二ヶ月の待機を経た後の再雇用される可能性を、私は迷うことなく望み、必要な手続きを踏んだのである。
 しかし、私がその職場に再び復帰することはなかった。
 求人情報は出ており、手続き以外にそちらから応募もしたが、連絡が来ることはなかったのである。
 求人は相変わらず出ていたが、私は雇用されなかったのだ。
 まるで理解出来なかった。誰よりも懸命に働いたし、成果を上げた自信もあった。かといって謙虚な態度を捨てることはなかったし、正しく真面目に生きたことが、信頼と評価を受けたのだと信じていた。それでも私は雇われなかった。
 恐らく、干されたのだろうと思う。幾ら仕事が出来ても、私は必要とされる人間として、評価されなかったのだ。
 思い当たるとすれば、結果として〝正規と揉めた〟こと以外考えられない。間違ったことを言った覚えもした覚えも無かったが、そういうことではないのであろう。上司に直訴したところで、責められたのは私だったのだから、その時点で気付くべきであった。馬鹿は私だったのだ…。
 鬱状態に陥ったのはそれからであった。正義が通用しない。私個人の正義だったのなら、間違っていた可能性もある。そこまで自信家ではなかったから、私は常に問い続けてきた。討論になったとしても、相手の意見を聞こうとしたし、何度も訴えたはずだ。
「私の言っていることがおかしいなら、ちゃんと教えてください」と…。
 しかし教えてくれる人などいなかった。肯定し、味方になってくれる人はいても、私を否定し、〝間違っている〟という人はいなかった。私を否定するのは対立している相手に限ったし、その相手はその他に否定されたのである。
 対立した相手が私を否定することにより、私はどんなに味方を付けても、自分の意見に完全な自信を持つことは出来なかった。一人でも否定する人がいる…その事実を無視することが出来なかったからである。私は心の中で自分の正義を信じても、結局受け入れられないことで、自分で自分を否定、若しくは疑問視することから抜け出せなかったのである。
『何故?』が渦巻いた。起こったことの現実を受け入れきれず、また、前途が闇に閉ざされて、私は毎日、眠ることも目覚めることも出来なくなっていった。いくら考えても答えが出ない…。
 生活に困り、妥協して雇われた職場に二ヶ月勤めた。退職したのは、相性が悪かっただけでなく、信頼を裏切る職場だったことが重なり、酷かったが最高だった元職場へ復帰する為の〝一筋の光〟に賭けたからであった。アルバイトではなく、試験を経て正当に雇用される、準職員としての募集枠を見つけたのだ。
 しかし筆記試験をクリアした後、面接で再び落とされる。しかも定員割れしていたそれに落とされたのは、私だけであった。
 心が打ち砕かれた。私はそんなにとんでもないことをやらかしたんだろうか…。望みは潰え、説明してくれる存在もいないことで、理解も納得も出来ない。責める箇所さえ判らないのに、自分を責めることしか出来ないのである。何処を向き、何をすれば良いのか見当も付かなかった。
 私がその時決めたのは、天職と信じたこれまでの仕事を〝やめる〟ということであった。
 鬱状態であったが、前に進まなければならない意識だけは持っていた。仕事がない=収入も無い。長年のアルバイト雇用で、賃金は最低に色を付けた程度であったが、蓄えも微々たるものであった。それでも何かしなければ気が狂いそうだった。
 私は職を変えるため、別の資格を取るためになけなしの貯金を崩した。
 テキストと向き合う日々が始まったが、集中出来なかったのは、収入がないことで将来への不安が消えなかったせいである。新たな一歩を踏み出したつもりだったが、その資格を取ったところで、就職に当てが出来るわけではなかった。
 ところがその直後、私は運命を目撃する。
〝捨てる神あれば拾う神あり〟
 私は神を目撃し、消しゴムで消しても良いような二ヶ月の不本意な勤務をなかったことにすれば、九ヶ月ぶりに納得のいく仕事に就くことになったのである。
 唯、〝拾う神〟が必ずしも良心に満ち満ちているとは限らない。私を待っていたのは、悪質ないじめであった。それが終焉を迎えるまでの三ヶ月、そして平和と充実を期待した一年が始まったのも束の間、私は行政というものにもみくちゃにされ、再び鬱状態を発症。そして再び退職し、転職。更に一年働いて退職し、今に至る。
 その間〝人とは何か〟と自分が混乱を来すまで考え、再契約を得るための試験と、再就職のための試験を、併せて7回受け、ふらふらになった。
 世の中の就活生は偉いと思う。なかなか内定を得られずに、何度も何度も試験に挑み、ようやく内定を得れば与えられた仕事を大切にして心身がぼろぼろになっても、我武者羅に働く。そこが手酷いブラック企業であったとしても、「仕事とはそういうものだ」と思って…。
 考えてみれば私は、アルバイトで限りなく最低賃金に近いとはいえ、長い間、楽して仕事を得て来たのかも知れなかった。もしかしたらそのツケを、今四十を前にして、払っているのかも知れない。
 アルバイトではなく、毎年試験を受けて採用されても、継続雇用を望んで翌年受ければ落とされる。そんなことが二度続いた今、自分の価値を改めて思い知らされた気がした。私は行政という場所にとって、存在するに値しないのであろうと…。
 躓いた予感があったのは、最後に受けた試験であった。ある質問で試験官の表情が一変したのを、私は見逃さなかった。
 思い返せばその前の試験でも、同じことが起こっていた。その時に気付くべきだったのに、私は見ないフリをしていたのだ。その時私は、未だ自分の正当性を信じていたし、私の答えが変わらないことを〝事実だから仕方がない〟と捉えていたのである。〝嘘はつけない〟と。
 私はずっと、三年前のトラウマを引き摺っていたのだった。
「職場でコミュニケーションを円滑にとるために、気を付けていることはありますか?」
「職場で困ったことがあった時、それをどのようにして乗り越えましたか?」
「職場で一緒に働く人と意見が食い違った時、あなたはどうしますか?」
 何処の、何時の面接でも、手を変え、品を変え、言葉や表現を変えてされてきた質問に、私はいつも、決してしてはならない回答をして来たのかも知れなかった。
 いや、実はそれが敗因になったことに気付いたこともあったのだ。しかし、緊張とプレッシャーの中で、答えを探しているうちに、答えなくても良いことが口をついて出てしまう。後悔しても後の祭…。誤魔化して乗り越えることがずっと出来なかったのである。
 そして気付いた。私はそういう人間なのだということに…。
 そして行政は、そういう人間を一番忌み嫌うのである。
「自分が頑張って来たと思っていることが、正規にとって頑張ったと思えることとは違ったんやろな…」
 そうだったのだ。
 他の誰に評価されても、私は正規に評価される人間にはなれなかった。
 では正規に、評価される人間になりたいか、今からなれるか…。
 NOとは言えないが、YESとも言えない。
 今も、おかしいことをおかしいと感じている自分がいる。
 仕事もせずに喋りまくり、デスクの下でスマホをいじっている正規に苛々している。
 偉そうにふんぞり返って、格下雇用を馬鹿にする人間に、税金から給料が支払われていることに憤っている。
 それから、それから、それから……。
 しかし気付いたのである。此処はそういう世界なのだ。
「仕事をさぼろうが遊んでいようが、正規は守られる。同じことを臨時がしても、組織は守ってくれへん。それをおかしいと感じて沿われへんのやったら、臨時の自分がこの世界から去るしかない」
 あぁ、私は…去るべき人間だったのだ。
 おかしなことを見て、見えないフリが出来ない。
 おかしいと思う人間にゴマを擂り、媚を売ることが出来ない。
 正しいと思うことを間違っていると思えない。
 それから、それから、それから……。
 私は物凄く馬鹿な人間かも知れないが、もう馬鹿なままでも良いと思った。諦めたのではない。受け入れたのだ。おかしいと思うことが罷り通る場所に自分が居たのだということを、ようやく受け入れられたのである。
 力が漲る。
『私には今、私が感じるおかしな現実を、〝そんな風に成り立っている世界も存在する〟のだとして受け入れる、力がついたのだ』
 死ぬしかないと思った矢先の開眼。波乱万丈の長い道のりだった。
 三年前、今此処で言われた言葉を同じように言われていたとして、私が受け入れられたかは判らない。今より三つは若く、社会を知らずに正義感だけで生きていた。それから二度の無職期間と二度の転職。しかしこの短期間に出会った人の、存在の大きさは計り知れない。三年を経て、今まで出会ったことのないような様々な人と縁を結んだ。本当は無職も転職も二度と嫌だが、必ずしも悪いことばかりとは言えない。
 この日、私の蕁麻疹は出なかった。薬を飲んでいないことに気付いた後も…である。
 後日、この話を友人にしたところ、思いがけず褒められた。
「すごいやん!自分の考えを変えるってすごく大変なことやのに、やり遂げたなんてエライ!」
 優しい人である。彼女も私と似たジレンマを抱えて生きて来た人だったが、私よりずっと大人で生き方が上手な分、溜め込み過ぎてよく体調を壊していた。彼女と出会えたのも、この三年間の大きな収穫である。
 間もなくして、いつも読んでいる新聞のコラムにこんな記事があった。
【相手を変えることは出来ない。変われるのは自分だけ。
若い頃…〝困った人〟に振り回され、いつも自分が正しいと思っていた。人は簡単には変わらない。ならば自分の考え方や接し方を変えるだけ】
 書いたのは、中学生の自分の息子に向き合った、四十代の母親。本人もそれに気付いたのは、ここ数年だとあった。
 何だ…私は気付くのが、遅すぎたわけでもないらしい…。
 今、私は無職である。これを書き始めたころ十日目だったそれも、間もなく一ヶ月が経とうとしている。
 したいことには全て挑戦したが、全滅した為、今もまだ新しい目標を見付けられていないせいで、次のステップに進めずにいる。
 毎日昼夜逆転の生活で、日中はゲーム三昧だが、毎日ハローワークの求人検索で仕事を探し、洗濯・炊事に風呂掃除、そして一日二回から三回の犬の散歩は欠かさない。歌とピアノの自主練で気分を盛り上げ、体のためにストレッチも再開しつつある。楽しく生きようと前を向いているが、時折どうしようもなく不安にもなる。そんな時は呪文のように静かに唱える。
『無理はしない…』
 少しでもそんな風に生きられるのは、元気でいてくれる家族のおかげ。出会ってくれた人々のおかげ。〝ありがとう〟と感謝をしながら、今、一日を私は生きている。
 
 そういえば、ずっと行きたかったのになかなか行けなかった、高野山や宮島に行った時も、出なかったな…蕁麻疹。

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