変わるということ

 よく、「誰かから指摘されたり注意を受けたりしたら、有り難く受け取れ」というようなことを言われる。「言ってもらえるうちが花」「ある意味期待されているということ」…などと言い換えられることもある。
 しかし私は、これらの助言が嫌いだ。自分がすべて正しいと思っているのではないし、捻くれてそう思っているのでもない。事はもっと複雑である。
 誰かから与えられた指摘や注意を、全面的に否定したり拒否するつもりは元々無い。否が自分にあれば素直に認めるし、必要なら謝罪も改善も厭わない。基本的に自分に自信のある人間では無い為、自分より人の言っていることの方が正しいと感じる場面も多いからだ。
 しかし、人からの指摘や注意が、私には大きなストレスである。一方的なものは言わずもがなだが、そうでないものでも、私が『自分の力不足によって、相手に迷惑を掛けてしまった』という自己嫌悪に陥るせいだ。依って、なるべく迷惑を掛けないように、失敗を犯さないように…と細心の注意を払うのだが、それでも指摘や注意は減らない。
 不本意なのは、「きっちりしすぎ」「ちゃんとやりすぎ」と、本来なら評価されることではないかと考えられるようなことまで、最近は特に指摘や注意の対象となることである。
 誤解の無いように言えば、自分がいかに〝きっちり〟や〝完璧〟を目指していたとしても、私が他者に対してそれを求めることは殆ど無い。それは、目指すものが究極であっても、私は人間だから間違いを犯すし失敗もする…という前提があるからだ。言わば、〝自分が出来ない可能性のあることを他者には求めない〟というスタンスである。
 唯、〝殆ど無い〟というのは、全く無いということとは違う。恐らく何処かで、私に指摘や注意を促す人に対して、また、私に完璧を求めた上でそれらを行う人に対しては、同じような条件を求めるところがあるのかも知れなかった。
 指摘や注意を受けた時、『そういうつもりではなかった…』ということは多々ある。与える側と相手の受け止め方が違ったというのが、大体のところだ。そういった場面では、一旦相手に謝罪した上で、私は事情を説明して理解してもらおうとするのだが、これが相手によっては怒りの逆撫でになるようである。往々にして〝反論〟〝反発〟〝言い訳〟と捉えられ、何故か「自分の否を認めない」と受け取られるのである。
「もっと人の話をちゃんと聞け」や「言われたことを一旦受け止めろ」という言葉を投げ掛けられるのが、こういった場面である。
 指摘や注意を与える人というのは、揃って年上や立場が目上の人であることが多いのだが、そういう人々が必ずしも正しいことを言っているとは限らないし、していることが正しいとも限らない。しかし言っている、している本人というのは、自分が正しいと思っている場合が圧倒的に多いように感じるのである。
 
 私は基本的に、不器用で要領が悪い。手先が不器用で、物事をこなすのに段取りが悪いといったような要領の悪さとはまた違う。実際のところ、言われたことを鵜呑みにしたり、深く捉えすぎるが故に、自分で自分の首をどんどん絞めて行ってしまうという類のものだ。
 昔から、「人に言われたことは素直にきけ」とか「自己主張しすぎるな」とか言われて育った。家でも学校でも、その他の組織でもだ。私はずっと子どもだったし、大人と呼ばれる年齢になっても、ずっと年若で地位も立場も下だった。しかし、人と人の狭間で揉まれるうちに、少しずつ色んなことに気付いて行く。年上でも、地位や立場が上でも、することもなすことも、言うことさえ正しいわけではないということに…。
 人は誰かの上に立とうとすることで、自分の立場を上げようとする。下に控える者を作ることで、自分の価値を感じようとするのだ。
 正直、私にはその心が解らない。世の中が平等では、何故いけないのだろう。其々に其々の考え方があって、価値観があって、人に迷惑を掛けたり、他者を苦しめたりしさえしなければ、其々を尊重ながら生きて行けば良いではないか…そう思ってしまう。しかしそういう考え方は、社会でなかなか受け入れられない。それが何故なのかも、いつまでも解らないままだ。
 
 私はずっと、注意されたり指摘されるのが嫌だった。だからそれをされないように気を付けたし、されない人間になれるように努力して来た。「話を聞かない」と言われれば、そうならないようによく聞くようにしたし、「頑固だ」と言われれば自己本位に陥らないように気を付けた。言われたことに沿えるように、批判されないように、不満があってもそれを口にするより先に、相手の言葉に耳を傾ける姿勢を持ち続けた自信はある。「言われたことも出来ない」…そんな風に言われる人間にはなりたくなかったからだ。
 しかし何も変わらなかった。批判する人は批判する。私を嫌いな人間が、私を好きになり、受け入れようとすることはとても稀なのである。
 先日、ディズニーの実写版映画「シンデレラ」を観た。あまりにも過酷を強いる継母に対し、主人公はついに「なぜそこまで虐めるの?」と詰め寄る。
 継母は言った。「お前が素直すぎるだからだ」と…。
 私はシンデレラほどに心優しく清らかで、素直な人間ではない。しかし継母の答えには度肝を抜かれた。素直だから虐める…それはどういう心境か?と…。
 私が苦しんだのは、シンデレラのような過酷な虐めによってではない。唯、人の言葉に振り回されたことが原因である。
 言った本人はそこまで気にしていないし、既に忘れていたりもするだろう。私に対する印象は悪いままだろうが、私が過去の人となっている場合、振り返って後悔したりすることも恐らくないかと思う。そもそも注意や指摘を与えなければならないと思って行った言動ならば、それを然るべき行いだと捉えて自己満足さえしているかも知れない。
 それなのに私は、私に与えられた言動の一つ一つに苦しみ、一々深刻に受け止めては、違う場所に行っても、同じことで注意を受けないように気にかけ続けていた。自分が悪いから指摘されるのであって、与えられたものを学びに変えなければ、正しい大人にはなれないと信じ込んでいたのだ。上手くいかないことがあれば、出来損ないの自分のせいだと考えたし、上手くいくような生き方が出来ない自分を何度も振り返っては、どうすれば良かったのかと答えを探して悩み続けた。何度も何度も…数え切れないほどに…。
 しかしもう疲れてしまった。自分を否定する人々にも、肯定してもらえるようになる為に考え続けることにも、人の言葉に振り回されて、自分自身を信じることさえ出来なくなってしまった自分と、向き合い続けることも…。
 もう良いのではないかと思う。
 思い返せば、批判される一方で、私を肯定し、評価してくれる人も沢山居たではないか。私は私のままで居て、それで良いと言ってくれた人も…。有り難いと感謝しながら、それに甘えていてはいけないと、自分を戒める心は常に持っていたが、私は自分がなりたい自分になろうとし、少しずつでも自分を好きになっていけた。
 けれど私が私を好きになればなるだけ、何故か生きる環境が心静かでなくっていく…。それが現実だったせいで、私は自分を認めることが益々出来なくなっていった。良くなるものも良くならなかった。
 でも、もう良い。もうやめよう。
 これ以上、人の言葉に振り回されて、自分を否定しながら考え続けても、何も良くならない。現に私はしんどくなっている。
「言ってもらえるうちが花」「ある意味期待されている」…肯定的に言われてみても、結局良くなった試しなど無いではないか…。自信を失くしていくばかりなら、それは私にとって良い助言とは言えない。
「変わらなければならない」
「変わらなければ何も変わらないし変えられない」
 何かに苦しむ度に、誰かがそう囁く。私は、私が私で居てはいけないのだと、自分を責め続けた。変わりたくない部分も沢山ある自分という人間を、人は「変わることが正しい」と迫る。私は自分の何処をどう変えるべきなのかも判らなくなっていった。
 人が育っていく形は様々だ。より良く育つ方法も、皆が同じとは限らない。私はずっとしんどかった。そして苦しかったのだ。
 今まで居た場所が、自分をより良く育ててくれる場所ではなかっただけ。私は何もしなかったわけではない。そこから逃げずに、沿えるようにと努力したではないか。
 沿えるような努力をしても、自分の意見を主張しても、どの道同じように嫌われるなら、自分を信じて自分の生きたいように生きた方がずっと自然で良い。
 私が私らしく生きられる場所を探そう。闇を抱えながら執着しなければならないような場所なら、そこはきっと私の居場所ではないのだろう。社会のすべてがそうだと言うなら、私のような人の生きられる場所などきっと無い。
 けれど世界は思う以上に広いはず。生きにくさを抱えているのも、私だけではないはずだ。
 自分を信じよう。信じられる場所で生きて行けるようになろう。弱くて小さな私でさえ、自分らしく生きて行ける場所があるはずだ。なければ創造すれば良い。前例がなければ作れば良い。簡単でなくとも、しないよりはずっと良い。出来なくても、やろうとした事実は残るはずだ。
 人生は自分自身のもの。誰かの為のものではなく、誰かに左右されながら迷い続けるものでもない。時間は限られている。どんな人間になっていたとしても、迷い続けて沢山の遠回りをした分、私は自分で考え、何が良いのか判断出来る大人にはなっている…それを信じたいと思う。

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