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なぜ私は今、アフリカの大地に立っているのか

一年半前、アフリカを旅しながら書き始めたこのnoteに、移住先のウガンダで少しずつ言葉を付け足そうと思う。


大学進学をやめるまで


15歳のとき、はじめてカンボジアでバックパッカーを経験した。

旅を始めて私は、世界を疑うことをはじめた。世界がシンプルでないことを知ったからだ。

高校生の頃、ここまで経済が成長し、物足りている世の中でなぜ脱開発が進まないのか。なぜSDGsのDはさらなる”Development”を目指すのか。なぜ人間は半永久的に他者の欲望を模倣するのか。どこかの国で戦争がはじまった時、なぜ人は国や組織を善悪で判断するのか。

授業でもニュースでも友達との会話でも、日々当たり前に発せられる言葉が疑問だらけになり当たり前ではなくなった。

そんな中で日常の一番の関心ごとは社会問題であり、16歳の時に渡航したアフリカで、将来的に仕事としてソーシャルイノベーションを起こしたい、という思いが生まれたのは自然な流れであった。

この目標のためにも、まずは社会を理解することが必要だった。
そして、社会の絡まった糸をほぐすには、教科書やインターネットの文字を目と脳みそで理解するのではなく、当事者側からその問題を学ぶことが必要だと気づいた。次に、人間としての感覚値を可能な限り合わせて考察することが必要だ。最後に、どうしたら人間的に感覚値を合わせられるか考えた時、自分が当事者のいる現地に足を運ぶことが合理的な方法だと考えた。

高校三年生の頃には自然と高校卒業後に大学進学という道は消え、社会の一員になり自分が足を止めたいと思う日まで旅をすることに決めた。

アフリカに来た理由


高校を卒業して9ヶ月後。アフリカ縦断が確定するかもしれない中、私は鬱病と適応障害を発症した。

高校を卒業してインターンやバイトでいっぱいいっぱいの時だった。自分に足りないスキルを獲得するため、そして自分の選んだ選択肢に責任をもつため、経済的に自立しようと新たな仕事を求め過ぎた結果の追い打ちだった。

普段、ビルの中でパソコンに向かっていて、ふと「なんで人は生まれてきたのだろう」なんて考えることなんかない。対照的に、閉ざされた空間でずっとちっぽけなことやミスが、エンドレスに自分の心身を刻んでいく。
プッレシャーや疲労で心を失った抜け殻の自分から、訳も分からずひたすら乾いた涙がこぼれ落ちる、そんな日々を経験した。
精神科で処方してもらった精神安定剤の数が少しずつ増える中、高校生の時に見た「あのアフリカの景色をまた見たい」という気持ちが唯一の解決策につながると信じた。

一ヶ月後


夕焼けを追いかけ4時間信号のない、ただひたすら真っすぐに続くケニアの大地を友達とバイクで走り抜ける。どこを切り取っても母なるアフリカの大地があまりにも美しく、涙がヘルメットに滴るのをグッと堪える。

「アフリカのどこが好きなの?」と聞かれても言葉が詰まる理由がここにある。

言語化できないくらい、果てしなく長く広く地上線の見える大地の上で、自分の体が風を感じ、目が美しいものを取り入れ、耳が鳥の声を聴き、鼓動が速くなるのを感じ、心が「あー!!!!生きている!!!」って大声を出したくなるくらい踊っている!!!

アフリカが母なる大地と呼ばれるワケを全身で感じる。間違いなく私たちはここから生まれてきたに違いない、と。やっぱりアフリカって特別すぎる。

この世界から自分を消し去りたい日々から逃げるように、私はアフリカに来た。ケニアへの行きのチケットだけを取って、どこに行くかも、期間も決めず。
私が「旅をやめてここに住もう」と決意する8ヶ月後まで、アフリカ10カ国を東西南北、のんびりと旅した。

人口200人のガンビアの村で、土砂降りが降ってきた時。せっかく手洗いして干した洗濯物がびしょ濡れになってしまった。でも、村の子供たちや若者は家から出てきて、びしょ濡れになりながら満面の笑みで歌って踊り狂った。
彼らは私に、そんなに頑張らなくても私たちは生きているだけで幸せになる方法があることを教えてくれた。

暮らしでもいつの間にか、ガスが使えない家は当たり前にポケットからマッチを取り出し、ご飯の支度をはじめるようになった。アフリカの民族の儀式は親戚の集まりのようだったし、主食はウガリやマトケだ。

ただ、もちろんアフリカ縦断は「毎日逞しく生きている」なんて言葉でおさまるものではなかった。時には自分の弱さに直面し、孤独に向き合い、しんどさから自分の殻をつくって引きこもり、考えることを停止したくなることもあった。
この数年で人間として少し成長して共感性や想像力が高まり、人との密接度が深まったことから、現地でできた友達の苦しみが私にも伝わった。日本でアフリカの社会問題として取り上げられる問題が、ここでは友達の日常であった。

身近な友達が不条理な社会の中で苦しむあまり、自分には目にして感じた現実をそのままの形で受けとめ解くことができない。整理しきれない日常にさらにカオスが重なり、友達の家のトイレで泣いた時もあった。

それでもやはり足を止めることができないのは、結局この困難を乗り越える自分の成長も、旅が導いてくれるからだった。それは、アフリカ縦断をはじめて月日が過ぎ、世界への疑問もまずは自分を理解することからはじまると気づいたからだ。

どんなにバックグラウンドが大きく異なっても、人は「話す」ことで、誰とでも必ず共通点が存在することに気づく。遠い存在に思える人がこの行為を通して、自分の誰にも共感されなかった感情に寄り添ってもらえる、そんなことも起こりうるというのは大きな発見だった。

風のように旅する私が偶然の出会いで世界の何処かで誰かと深く関わるようになり、その人の人生の一部になる。その出会いが自分にとっても自分の人生をまた少し豊かにする、というこの一連の流れはあまりにも美しかった。

アフリカ縦断は半年経っても、朝、目が覚めると「今日はまた、もっとアフリカのことが好きだ」と感じる日々だった。出会った数え切れない人からもらった愛情と豊かさは、私自身がアフリカにいることを全力で肯定してくれる気がした。


ウガンダ移住


私は今、東アフリカのウガンダで暮らしている。アフリカ縦断で最も長く過ごし、ジャーナリズムの仕事でも関わった国だ。

初めてウガンダに来た時に出会ったストリートチルドレンのロニーくん。スラムで道端に倒れていて、体調不良を訴えていたので病院に連れて行き、ご飯代を渡したらその翌日に胸元に痛々しい傷ができていた。理由は「外国人の私がお金を渡したから、他の子供に脅された」のだ。
この国で何一つ想像通りにいくことなんてないし、部外者の私がここで人に関わるというのは、責任をもたないといけないということだと痛感した。

旅人だった私は、ロニーくんに必ず帰ってくると約束した。

私は今、旅人ではなく、ライターとして、そしてウガンダのアパレル会社とNGO、音楽シーンの一員としてこの国に関わっている。ロニーくんのようなストリートチルドレンや孤児の子供たちと泥道を歩きながら、一緒にご飯を作って食べている。

手を差し伸べてくれる大人も存在せず、帰る家を失いゴミの上を裸足で歩く子供たち。紛争で家族を失い、眠れる場所を求めて歩き続ける人たち。
仕事では極度の貧困で倒れ、レイプでAIDSに感染した子供、シンナーに溺れる人々を相手にする。友達からは虐殺から逃れ、家族全員を失った話を聞かせてもらう。
そんな人間の心をもぎ取るくらい汚い不条理な現実は、責任のない人々を狂わしている。

生死が身近な毎日で、ここにいると自分が生活しているという感覚より、自分が生きているという感覚の方が大きいと実感する。アフリカを知って、世界は想像以上に残酷で汚いと知った。
今まで学校では「1+1=2」と学んできたはずが、日々の生活で見えてくるのはもっと他の答えが生まれるのが現実なのだと。

でも、それと同時に彼らは、その現実を受け入れ絶望してでも前を向くしかない。生きるために、愛する人のために。その強さからくる彼らの優しさと明るさは、私に生きることの喜びを教えてくれた。
世界は想像以上に美しいと教えてくれたのも、アフリカだ。

来月、私はここで21歳の誕生日を迎える。
19歳の自分へ、あの時、逃げるという一番大きな選択肢を選んだ自分を褒めたい。


このだだっ広い大地の上で、私の脳みそはひたすらに壮大な考え事でいっぱいだ。目的があってアフリカに来たわけだけど、結果的に理由を探す必要もなく、アフリカは本当に私の心の終着点となった。


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