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セリーナ、ガウフ以前にもすごい選手がいた! アフリカ系テニス選手の歴史

9月10日、全米オープンテニス決勝(女子)でアフリカ系アメリカ人、ココ・ガウフ選手がベラルーシのサバレンカ選手(現世界1位)に勝って優勝を果たしました。19歳の四大大会初優勝に、地元アメリカのスタジアムは湧きたちました。黒人選手 vs. 白人選手、アメリカ人 vs. ベラルーシ人(ウクライナ紛争においてロシア側と西側諸国から見られている)、と背景には二つの対立事項がありましたが、この日、スタジアムの聴衆はアメリカ人であるガウフ選手を応援することに異論はなかったようで、試合中はポイントを取るたびに大きな盛り上がりと声援がありました。しかし今から73年前までは「分離政策」の影響で、黒人選手はこの大会に出場できませんでした。
*写真・左:大坂なおみ(photo by AndrewHenkelman, CC BY-SA 4.0)、中央:ココ・ガウフ(photo by By All-Pro Reels, CC BY-SA 2.0)、右:アリシア・ギブソン(米選手、1950年、男女合わせてアフリカ系の選手として初めてこの大会に出場)

テニスに興味のない人でも、セリーナとビーナスのウィリアムズ姉妹の突出した活躍は知っているだろうし(そして大坂なおみ選手もいるので)、アフリカ系のガウフ選手の優勝といっても、それほど驚きはないかもしれません。しかし一般的には、ウィリアムズ姉妹は特別な人、黒人選手は(男女ともに)テニス界にはほとんどいないのでは、と思われてもいる節もあります。(理由としてはテニスは金持ちのスポーツで、黒人は貧しいしいから、といった)

それほど熱心とは言えないものの、テニスの国際大会をある程度見てきたわたしでも、アフリカ系の選手は最近ではときどきいるな、くらいの認識でした。

そんなとき偶然みつけた「BREAKING THE BARRIERS」というサイトで、セリーナやガウフ以前の古い時代にも、突出した選手が男女ともにいたことを知りました。実際にはテニスにとって大きな功績があったアフリカ系選手がいたにも関わらず、そのことを知らない(知らされていない)ということ、アフリカ系であるということからくる思い込みによる間違ったイメージをもつこと、それこそが差別であり偏見なのだな、と感じました。

上にも書いたように、アリシア・ギブソン選手はアフリカ系のテニス選手として(男女を通じて)初めて、1950年の全米選手権(現在の全米オープン)に出場しました。全米選手権は1881年にアマチュア大会として男子シングルスとダブルスで始まり、全米ローンテニス協会加盟のテニスクラブの選手のみが出場できました(Britannica)。1887年に女子シングルス、1889年に女子ダブルス、1892年に混合ダブルスと女子の参加が認められるようになりましたが、アフリカ系選手が属しているクラブ(ボルチモアやワシントンD.C.周辺に設立された、主として黒人を対象としたテニスクラブ)は、そこから排除されていたため、あるいは黒人選手の参加自体が認められていなかったため、大会に参加できませんでした。

このような問題を解決するため、アフリカ系アメリカ人の実業家や大学教授、医師のグループが、1916年にワシントンでATA(The American Tennis Associationを設立しました。黒人のためのテニスの普及、ジュニア・プレイヤーの育成などを目標にしていたATAですが、アフリカ系だけでなく、あらゆる背景の選手を受け入れていたようです。

ギブソン選手は、18歳だった1946年に、このATAの試合に初めて出場しています。(驚くべきことですが、ギブソン選手がテニスを本格的に始めたのは高校生になってからでした。つまりテニスを始めて2、3年で大会に出場したということです)

アリシア・ギブソン選手が初めて全米大会に出場した1950年は、1896年にアメリカ最高裁判所によって下された判決により、アメリカ南部では電車やバス、劇場、公衆トイレ、学校など公共施設で、黒人と白人が分離されていた時代、まさに隔離政策の最中でした。しかしギブソン選手初出場の少し後の1954年には、人種分離政策は憲法違反という最高裁の判決が出て、「隔離はしても平等」という白人論理は通りにくくなってきたと思われます。

とはいえ憲法違反であるという判決の4年前に、テニス協会がギブソン選手の出場を認めたことは、画期的だったと思えます(ここには後で紹介する、一人の白人選手の発言が影響していた可能性があります)。ただアメリカ国民の中にある差別意識や反感が消えていた、というわけではないでしょう。

1950年、23歳のアリシア・ギブソンが黒人テニス選手として初めて全米選手権(現在の全米オープン)の会場に足を踏み入れた時、観客は暴動の嵐と化したという。

Wikipedia「アリシア・ギブソン」より

このときのギブソン選手は2回戦で、第3シードの選手に1ー6、6−3、7−9で競り負けた、とあります。初出場で第3シードの選手とこのような戦いをしたとすれば、将来有望のように見えます。おそらく相手のルイーズ・ブラフ選手(ここまでに四大大会5回優勝)は、第2セットを落とした時点で相当あわてたのでは。第3セットはどちらに転ぶかわからないタイブレークになっています。

実際、ギブソン選手は1956年の全仏で初優勝、翌年の1957年、1958年の全米、全英でそれぞれ連覇を果たす活躍を見せています。その後、アフリカ系の女子選手の四大大会優勝は、1999年のセリーナ・ウィリアムズの全米優勝までありませんでした。

男子の方はどうかというと、1943年生まれのアーサー・アッシュ選手(米)がいました。アッシュ選手は1968年の全米オープンで初優勝、1970年の全豪、1975年の全英で優勝と四大大会で計3回チャンピオンになっています。アッシュ選手の四大大会優勝はアフリカ系の男子選手としては初めてで、1983年にフランスのヤニック・ノア選手が全仏で優勝するまで他にいなかったそうです。

アーサー・アッシュ(左)1975, photo by Rob Bogaerts(CC BY-SA 3.0)
ヤニック・ノア(右)1979, photo bu Hans van Dijk(CC BY-SA 3.0)

1975年、アッシュ選手は、前年優勝者でテニスファンなら誰もが名前を知るジミー・コナーズを全英男子シングルス決勝で 6−1、6−1、5−7、6−4と圧倒のスコアで破り、4大大会3勝目を挙げました。

1997年、ニューヨーク、フラッシングメドウズにある全米オープンの会場に、世界最大の新しいセンターコートが建造されると、その4年前に病気で亡くなったアッシュ選手の功績を称えて「アーサー・アッシュ・スタジアム」と命名されました。これが現在の全米オープンの決勝の舞台です。
スタジアム開場の式典ではジョン・マッケンロー元選手が、アッシュに捧げるスピーチをしたそうです。

アーサー・アッシュ選手はアリシア・ギブソン選手とともに、国際テニス殿堂入りを果たしています。
現在アフリカ系のランキング上位者でいうと、女子では今年の全米覇者のガウフ(大会後3位・米)、マディソン・キーズ(11位・米)、男子ではティアフォー(11位・米)、ベン・シェルトン(19位・米)、ユーバンクス(32位・米)などがいてさらなる活躍が期待されています。
*国際テニス殿堂:テニスの歴史に名前を残した選手たちを記念するため、1954年にアメリカ・ロードアイランド州ニューポートに設立された、世界最大のテニス博物館(Wikipedea「国際テニス殿堂」)

17〜19世紀の奴隷時代に始まり黒人差別で悪名高い、そして今もBlack Lives Matterなど差別される側からの反発が絶えないアメリカですが、長い歴史を通して見れば、黒人選手の功績を正当に認める姿勢も社会は見せています。アメリカにおけるカウンターカルチャーの一つなのでしょうか。そして今も残るアメリカの黒人差別、それに対する反発や擁護は、黒人と白人の間で、州や国の政策と制度改善の間で、100年近くにわたって揺れ動いてきた、そしてこれからも続いていくということなのか。

アリシア・ギブソンについて調べていたら、彼女が1960年に書いた自伝が見つかりました。『何者かになりたいといつも思ってた』、これは最近、ランディ・ウォーカーという人がアマゾンで古書として高値で売られているこの本を見て、もっと広く読まれるべきと新版を出版しています。

旧版 "I always wanted to be somebody" by Althea Gibson

1960、70年代に活躍し、四大大会優勝12回のビリー・ジーン・キング(日本ではキング夫人と呼ばれている)がこの新版に素晴らしい序文を書いています。

12歳のとき、わたしがロサンゼルス・テニスクラブ(当時、テニスのメッカだった)で見たこと、それはテニスをする人たちはみんな白いウェアを着ていて、みんな白人でした。「他の人たちはいったいどこに?」 そう自問しました。そのとき以来、あらゆる人の平等のために、わたしの人生を捧げようと誓いました。

ビリー・ジーン・キング「序文」より("I always wanted to be somebody" by Althea Gibson)
訳:だいこくかずえ

もし自分が世界的なプレイヤーになったなら、自分の言うことにみんな耳を貸してくれるはず、と彼女は思いました。そして1956年、13歳のとき、ロサンゼルス・テニス・クラブで、アリシア・ギブソンがプレイするのを初めて目撃した、と「序文」の中で書いています。

彼女のテニスは、まるでバレエを見ているみたいでした。すべてが完璧で、その動きは優美で、力強く、理にかなっていました。その日以来、彼女はわたしのshero(ヒーローの女性形)になりました。

ビリー・ジーン・キング「序文」より("I always wanted to be somebody" by Althea Gibson)訳:だいこくかずえ

この年、1956年は、全仏オープンでギブソン選手が初優勝した年でした。

ビリー・ジーン・キング 左:photo by Lynn Gilbert, 1978(CC BY-SA 4.0) 
右:photo by Gage Skidmore, 2016(CC BY-SA 2.0)

キング夫人の少女時代(1950年代)にはまだスポーツに関する本が少なかったそうで、そんな中、テニスの歴史を本で読むことはとてつもなく重要だったそうです。そして1958年(と彼女は書いているが1960年か?)、ギブソン選手の自伝を手にし、彼女がテニス選手になるまでの軌跡と内面を知ります。それは普通のテニス人生とは決して言えないものだったけれど、ギブソンの生きてきた道は、コートの内外その両方で、自分のテニス人生に強い影響を与えた、と書いています。

もう一つ、アリシア・ギブソン選手についての別の選手の発言を紹介します。1930年代に活躍し、四大大会5度優勝のアリス・マーブル選手の寄稿文です。マーブル選手はアメリカのテニス界にある黒人差別(大会からの排除)に対して、強い言葉で反対意見を述べています。

「ギブソン選手は非常に狡猾につくられた樽の上にいます。わたし一人の意見では、ほんの少しその樽板をゆるめることしかできません。もしテニスが紳士淑女のものだと言うなら、わたしたちはもう少し優しい人間になるべきで、尊大な偽善者のように振るまってはいけない。アリシア・ギブソン選手が現在の女性プレイヤーの挑戦を象徴しているなら、協会はその挑戦に応えるべきです」 さらにマーブル選手はこう付け加えた。もしギブソン選手が競技に出る機会を与えられないなら、「わたしが人生の大半を捧げてきたテニスという競技に、取り返しのつかない傷を与えることになります。どうしようもなく恥ずかしいことです」

アリス・マーブルの言葉(1950年7月1日号「アメリカン・ローン・テニス・マガジン」の寄稿) from Wkipedia, 訳:だいこくかずえ
Alice Marble, 1937

アリシア・ギブソンは自伝の中で、アリス・マーブルがテニス雑誌に書いた記事を全文かと思うくらいの長さで引用しています。こんなフレーズがありました。

「私が夏にひどく日焼けしていたとして、それが理由でテニス協会の試合に出る資格がないのでは、と疑問を呈する人がいるとは思えない。マーガレット・デュポンの顔にそばかすができたとして、そんなことが理由で選手リストから彼女の名前が外されるとは誰も考えない。(中略)アリシア・ギブソン選手を排除するのは、それと同じ意味でまったく馬鹿げたことだ」

"I always wanted to be somebody" by Althea Gibson 訳:だいこくかずえ

世界ランク1位だったことのある実力者の発言が、アメリカのテニス協会にどう影響を与えたか、実際のところはわかりません。しかしその年の全仏オープンから、ギブソン選手は試合に出場するようになります。そして1956年に全仏で初優勝、1957、1958年と全英、全米で連覇を果たします。

少し話がそれますが、このアリス・マーブルも1990年に自伝を出していて、最近事実関係を修正した新版が再出版されています。また、それに基づいた映画もオリヴィア・クック主演で現在進行中とか。というのも彼女は世界的なテニスプレイヤーだっただけでなく、米陸軍諜報部に請われて元恋人とナチスの関係を調べるという任務のため、スパイとして働いていたことがあるのです。それがどういうことだったのか知るには、新版で出た自伝を読むしかありません。いずれにしても興味深い人物です。

テニスにおけるアフリカ系プレイヤーの歴史を見てきて、もしある競技が本当に素晴らしい価値あるもので、あらゆる人のための、すべての人に機会と恩恵をもたらすものであるなら、正しい選択をせざるを得ない、公平な決定が不可欠、ということがわかりました。これはスポーツだけでなく、芸術やその他の人間のあらゆる活動に当てはまることだと思います。

その意味で、スポーツや芸術などの人間活動は、国の事情や世界情勢から独立、自立して存在し得るとき、最もその価値が高まるように思います。人間がこういった活動に心を寄せ、人生のすべてを投じることがあるのは、スポーツや芸術の中に、あらゆる人を含めるという本質があるからかもしれません。

冒頭でガウフ選手とサバレンカ選手の背景にある対立事項を二つ書きました。が、もう一つ重要な要素があったことが思い浮かびました。それはこの試合を第6シードで出場したガウフ選手は、第2シードのサバレンカ選手に対して挑戦者だったということ。サバレンカ選手はこの試合前にすでに世界ランク1位が決定していました。

スポーツでファンが挑戦者(あるいは弱者)に肩入れすることはよくあります。このケースでも、それが起こっていた可能性はあります。ガウフ選手がアメリカ地元の選手だったから、と同時に、挑戦者が素晴らしいプレイを見せ続けたから応援したということだったのかもしれません。ガウフ選手がスーパショットでゲームを取ったとき、相手の強豪選手がミスでポイントを落としたとき、盛大な拍手と声援が即座に飛んだ理由はそこにあったのでしょうか。サバレンカ選手には少し気の毒な状況での試合になりました。

チケットを買ってスタジアムにまで観戦にいくスポーツファンというのは、選手のさまざまな属性をとりあえず脇に置き、スポーツそのものを、そこで披露されているパフォーマンスを優先事項として楽しみ、そのクォリティに対して最大の賛辞を送れる人々なのかもしれません。


注釈
(1) この記事では四大大会で優勝した世界トップレベルのアフリカ系テニス選手にしか触れていないが、ATA(1916年設立)を始めとする黒人テニスの歴史は古い。1898年、Rev.W.W.ウォーカー選手の企画・運営により、アメリカ各州間の黒人テニス大会がフィラデルフィアで初めて開催されている。初代チャンピオン(男子)は、リンカーン大学のトーマス・ジェファーソン選手だった。その2年後の1890年には、黒人のためのテニスクラブが最初にフィラデルフィアで、続いてバルティモア、ワシントンD.C.、ニューヨークなどで設立されている。(参照:BREAKING THE BARRIERS
(2) 1968年のオープン時代スタートまでは、四大大会やデビスカップなど国際テニス連盟が主催または公認する大会はアマチュア選手しか出場できなかった。オープン時代の最初の大会は、1968年の全英ハードコート選手権で、最初の四大大会は同年開催の全仏オープンだった。オープン時代は、すべてのテニスプレーヤーにテニスで生計を立てる機会を与えた。(参照:Wikipedea)


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