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家事はだれのもの? 5人の子を育てる非伝統型セレブ、ジオの場合

パートナーや配偶者が超のつくスーパースターであるとき、その人間と暮らす相方(あいかた)は、どうやって自分自身のアイデンティティを確保すればいいのか。

ジョージナ・ロドリゲス。1994年アルゼンチン生まれのスペイン育ち、元グッチ販売員、現在はファッションブランドや雑誌でモデルとして活躍、親の異なる子ども5人(自分の産んだ子2人を含む)の母親。通称ジオ。
Instagramのフォロワー4700万、2022〜2023年には、Netflixで彼女の生活を追った『わたしはジョージナ』のシリーズが公開された。
*Title image:from her Instagram

マドリードのグッチで働いていたジョージナは、当時まだ、どこにでもいそうな普通の働く女性として暮らしていたと思われる。その彼女が2016年にサッカー界のスーパースター、クリスティアーノ・ロナウドと出会った。『わたしはジョージナ』では、その出会いのエピソードが詳しく、それぞれの口を通して語られている。

これはニコール・キッドマンとトム・クルーズの出会いとは根本的に違う。方や世界中がその存在を知るスーパースター、方やブランドショップの店員。一般的な見方をすれば、不釣り合いなカップルである。「身分」の低い方は、高い方に自分の存在を押しつぶされる、か、アイデンティティの確保に身悶えするか、それとも陰の存在となって……

が、ここで取り上げるジョージナ・ロドリゲスはそのどれでもなかった。ジョージナがロナウドと二人でいるシーン、子どもを交えた家族全員でいる場面、ジョージナの存在感は際立っている。ロナウドがときに控えめに見えるほどだ。

いったいこの「只者でない感」はどこから来るのか。

ロナウドは『わたしはジョージナ』の中で、何度もパートナーを持ち上げる。いや心からそう思っているのかもしれない。子どもたちの世話や教育をきちんと熱心にやってくれて感謝している、彼女は勤勉でしかもアイディアに溢れている、彼女がいてくれて幸せだ。

ロナウドにはジョージナ以前に何人かの女性がいて、25歳のときに息子を(母親は非公開)、ジョージナと出会う前後に、代理出産による双子の男女の父親となっている(母親は不明)。その5ヶ月後にはジョージナとの間に娘を一人、さらに去年、男女の双子をもうけ(男児は出産時に死亡)、現在、5人の子持ちとなっている。すべてロナウドが父親としての親権をもっているようだ。

代理出産の件を見ても、どういう理由かわからないが、ロナウドは子どもを必要としている(いた)のだろうか。が、ジョージナ以前には、家族として暮らし、子ども全員を安定的に育てる環境には恵まれなかったように見える。

ジョージナは現在、幼児を含む5人の子どもの母親となり、一家を切り盛りし、結婚はしていないがロドリゲス・ロナウド一家の中心的存在として、柱となって暮らしている。彼女のパワーと賢さで、一家は家族のていを保っている。

『わたしはジョージナ』を見るかぎり、この女性はいつも堂々としていて、あまり裏表がない。率直であり、心もからだも、ある意味奔放に外に向かって開示している。ゴルチエの試着室でドレスをあれこれ試しているとき、「この服、ちっちゃくて足1本しか入らない!」などと、大声で宣言したりする。身長170cm弱、背のわりに胸とお尻の張り具合は見事で、体重もありそう。それを隠そうとするばかりか、強調するようなピタピタのスウェットや、胸のグッと開いた服を好んで着ている。そして堂々と歩き、ポーズをとる。

ジョージナのビジュアルは美しく、また立派だ。カンヌ映画祭に招待されて着ていく服(ゴルチエ)を選んだあとで、放った言葉。「これはギリシアの女神か、戦士を想起させる」 戦士とは! 肉体を強調する露出度の高いゴージャスなドレスを、この人は戦士という言葉で表した。まさに、彼女が着るとそう見える。セクシーさよりパワフルさが際立っている。

ロナウドが感嘆と共に感謝の言葉をたびたび述べているように、ジョージナは子どもの養育にいちばん力を注いでいるように見える。いちばん上はローティーンの男の子、12歳前後か。ひょっとしたらポルトガル育ちかもしれない。サッカーをやっていてユベントスの下部組織にいたことがあり、ロナウドも才能に期待している。その下はまだ幼児と言っていい双子の男女。男の子の方はちょっとアジアっぽい顔つきで、弱虫なところがある。双子の片方の女の子と、ジョージナ自身の娘は同い年でどちらも活発で奔放。そこに最近生まれたばかりの赤ん坊の女の子。

ジョージナは子どもたち全員を束ねている。ジョージナがいるために、子どもたちは一つ家にともに住み、ほんものの兄弟姉妹になっている。中でも難しい年頃かもしれない(母親の違う)長男が、妹や弟をかわいがり、世話をしているのは感動的な光景だ。またその下の妹弟たちも、生まれたばかりの赤ん坊をかわいがっている(妊娠中に子どもたちが付けた名前が、その子の名前になったようだ)。ロナウドがジョージナに感嘆し、感謝の言葉を繰り返すのもわかる。

ジョージナは4700万人のフォロワーをもつインフルエンサーなので、彼女が着た服、買ったバッグは人気商品となって売り切れたりするらしい。ブランドや雑誌のモデルとして活躍し、それが職業となっている。それ以外に、ロナウドの事業の管理、自分の活動である慈善事業や福祉ボランティアなどを精力的に行ない、またロナウドの大事な試合を観戦するために家を空けることも多い。

そうであっても、ジョージナは家族のことをいちばんに考え、優先し、それを使命としている風でもある。家族のこと、つまり家事を一手に引き受けているのだ。

ワークライフバランスとか、家事の分業とか言っても、クリスティアーノ・ロナウドには無理なことだ。少なくとも、2、3年後に引退するまでは。この人間は、そういう星のもとに生まれたとしか言いようがない。サッカー選手としての20年あまり、あらゆることに優先して(それによって起きる犠牲や制約を受け入れて)、ほぼこれ1本で生きてきた人なのだから。

ジョージナはどうか。このようなロナウドに対して、どのように自分のアイデンティティを保ってきたのか。彼女は家事であれ、ビジネスや慈善事業であれ、人生そのものであれ、マネージメントする能力がとびきり高いように見える。そして家族を大切にするのと同じ意欲とパワーで、自分の生き方を大事にしている。

これは私見だが、家事の肝はマネージメント力だと思う。料理や掃除、洗濯といった「労働」そのものというより、それをどう上手く楽しくコントロールするかということではないかと。たとえば食事の準備をすることの大半は、食材の入手や使い回しのアイディア、メニューの選定、手順にある。肉や野菜を刻むことだけが家事ではない。アイディアやイメージがが決まれば、食事の準備はほぼ終わったようなものだ。ジョージナがどこまで家事の末端まで手を下しているか知らないが、健康面を含めた全体的なコントロールをしているのではと想像する。それが家事をすることの意味の一つだ。

いつの頃か、多分ここ10年内くらい? 家事を「労働」と捉え、賃金換算することが思想的潮流の一つとなった(ことがある)。それは日本で言えば、高度成長期の1960年代に父親が外(会社)でモーレツに働き、母親は内(家庭)で家事や育児を一手に引き受ける専業主婦(良妻賢母)となる、という役割分担ができたため、(家事のみをする女性の価値を低めないため)「家事労働も立派な仕事である」とするようになった経緯があると思われる。

そして現在は働く女性が増えたことで、家庭内で家事労働を分担することは、日本でも多少進んできたように見える。ただ……と思う。

家庭内に限れば、家事を労働と捉えることは、誰にとってもあまり楽しいことではない。家事は何かと言えば、「日々を生きること」だ。作って食べ、片付け、清潔さを保ち、何かを保存し、明日のために準備する、といったことは、人間誰もがやることだし、人間はそれをすることで生きている、生かされている。その意味で、家事に関わろうとしない人は、生きることの幅を狭めているかもしれない。家事労働ではなく、「家事シェア」といった言葉が出てきたのも、なるほどという感じがある。

さて、ジョージナの話に戻ろう。

ジョージナは、プレゼンテーション能力、コミュニケーション能力が高い。『わたしはジョージナ』でのカメラに向かっての(全12回に渡る)しゃべりは、その見事な証明。自分を表現し、人に伝える彼女の能力が、このドキュメントを面白いものにしている。こういう人材を、メディア対応のPR要員、プレゼンテーターとして欲しがる企業もきっとあるだろう。

あるとき知り合いの宝石商の女性が、ジョージナにステージでタンゴを踊ってほしいと誘った。アルゼンチン生まれとはいえ、ジョージナはタンゴを踊ったことはないと断った。「バレエならあるけど」と。ジョージナは小さな頃から16歳になるまで、バレエのレッスンを受けてきたそうで、家が貧しかったこともありダンサーの道をあきらめた。エピソードの中で、彼女が踊るシーンがいくつかあったが、それなりの訓練を積んできた人のからだの動きを見せていた。モデルとしてジョージナがカメラの前に立つときのポーズが、素人のものではない理由は、こんなところにあったのだ。

最終的にジョージナはアルゼンチン・タンゴを踊ることを了承した。その日、ロナウドはステージの下で、嬉しそうに、眩しそうに、パートナーのパフォーマンスを見ていた。ジョージナは舞台の上の華麗な花で、ロナウドはその他大勢の観客の一人だった。

ジョージナとロナウドは現在、未婚のまま。2023年シーズンから、ロナウドはサウジアラビアのアル・ナスルFCでプレーしている。サウジでは未婚者の同居は認めていないそうだが、ロナウド一家は特例で家族で暮らしているようだ。特別待遇ということなのだろう。

結婚について、『わたしは…..』の中でそれぞれの口で語られている場面がある。ジョージナの友人グループの中では、ジェニファー・ロペスの歌(タイトルは何だったか)が、この問題に関するジョージナへのからかいのシンボルのようだ。ロナウドは「ピンとくるものがあったらするだろう、いつかはわからない、1年後なのか、半年後なのか….」のような発言をしている。

ロナウドは結婚したことがない。代理妻による子を2度にわたってもうけているが、結婚の意思はなかったようだ。子は欲しいが結婚には消極的、ということか。ジョージナとも未婚のまま暮らすのかもしれない。

クリスティアーノ・ロナウドの結婚は、想像するに、単に1組の男女が法的に一つの家族をつくるということでは済まないのではないか。いわば(株)クリスティアーノ・ロナウドの事業計画のような側面があるかもしれない。サッカー選手として築いた想像を絶する財、多岐に渡るビジネスと関連会社、そこから得られる利益、マデイラ諸島を含むロナウド家(一族郎党)との繋がり、などなど。

そういえばジョージナは、家事を仕事にしていた時期があるようだ。オペアといって、外国の裕福な家に住み込み、言葉を学習しながら家事を請け負うという仕事だ。ジョージナは高校卒業後、生まれ育ったピレネー山脈の山あいにあるハカという小さな町を出て、1年間だったか、イギリスでオペアをやっていた。英語を学ぶためだったのだろう。その後、マドリードに出てショップの店員になった。そこからグッチの店に移っている。

こういった経歴を見ても、この女性は、それほど恵まれた環境に育ったわけではなく、自分の力で何でも考え実行し、人生を切り開いてきたのだろうと想像できる。

『わたしはジョージナ』のエピソードの中に、スペインやポルトガルの養護施設を訪問するシーンがいくつかあった。ジョージナはそこの子どもたちと心からの交流をしているように見えた。お金を寄付したり、プレゼントを贈ったりするだけでなく、その子たちが暮らす家を訪ね、いっしょに遊ぶ時間をつくっていた。子どもたちから慕われ、子どもたちから感謝の言葉をもらい、涙するシーンもあった。ジョージナにとって、実母と暮らすことのできない子どもは身近だ。現在、彼女が家族として暮らしている5人のうち、3人は実母との関係が切れている子どもたちだ。

ポルトガルの施設では、小さな男の子から「今度はロナウドといっしょに来て」と頼まれるシーンがあった。そのときは、ロナウドはリモートで施設の子どもたちに挨拶し、手を振るだけだった。ロナウドも、ジョージナの活動に賛同し、支援や協力を惜しまないように見えた。

ジョージナがSNSで多くのフォロワーをもっているのは、セレブとして魅力があるからという他に、家事、育児を含めた彼女の生き方全体が素晴らしく、よりよく生きるための参考に思えるからなのかもしれない。

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