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うつ病だった頃

ヘラヘラとした記事ばかり上げているが、実はわたしは鬱病の経験者で、仕事も辞め服薬していた時期がある。
鬱という事は、家族は知らない。仲のいい友人にも詳しく話したことはない。

後付けの話で、当時のことはだれしもだれしも癌の前兆で体調を崩していたとしか認識していない。
鬱自体軽い方ではあったのかも知れない。
しかし全く生気を失くした。

ある日突然それはわたしを捕らえて、強い力でわたしの取り柄を奪った。

何があっても、どこか楽天的、いや能天気な部分がまず前面に出る。
反面、短気で面倒が嫌い。そのくせ責任感が強くて自制心も強い。

矛盾する性格を抱えている。まあ誰しもそんなものだろうが。
人よりはずっと打たれ強い自覚もあった。
しかし本来の力を出す気力が湧かなくなった。
眩暈が頻発し、這うようにトイレに行く。
脈拍が異常に速くなり、更には過呼吸の発作が起きる。

辛うじて食事の支度と子供達の弁当は作った。
行ってらっしゃいと送り出せば、倒れ込むようにベッドに体を投げ出す。
仕事はおろか買い物にも行けない。
外出が怖い。
人が怖い。

半面、こんな姿を誰にも気付かれたくなかった。

死んだらどうしよう…死にたくないけど、死にそう。恐怖が纏わりつく。
横になっても眩暈が襲う。
上半身を起こしても、体が強張る。
どんなにもがいても、リラックス出来ない。
電話に出るのも嫌だ。辛うじてメールは、最小限打てたが、誰にも説明できず鬱とは言えず、大した事はないとそればかり繰り返した。

無理に平静を装う反動が容赦なく来た。
一点を凝視できないから、字も書けない、パソコンも無理。仕事も辞めた。

数日で体重が4キロも減った。
悔しかった。
怖いのは自分が壊れて行くのを嫌と言うほど実感する事。

楽になりたい。
眠りたい。
そして死ぬ方が楽だろうかと、考える自分がまた怖い。

自分自身が信じられない。
わたしじゃないと何度も思うのに、何かがわたしを押さえ付けているように体が心が重い。そこには何もないのにわたし自身に殺されそうだった。

気が狂う!

タクシーで、病院に駆け込んだ。
医師はわたしの話を黙って聞いてくれた。
わたしが訴えることを遮らず、最後まで頷いて聞いてくれた。

語り終わって、ぐったりしたわたしに

「大丈夫ですよ。」

そう言った。励ましはしなかった。
暗示をかけるように薬を処方しながら言った。

「一番辛いのは何ですか?」

眠れない事
頻脈で疲労困憊する事
誰とも口を聞きたくない事 なのにそれをしなければならない事
そして生きる事

薬は速効性はないという。
長くて先の見えないトンネルに迷い込んだようだった。
先に進めばトンネルだもの、いつかは抜ける。
でもわたしにはその時は、その先にある光も、それ以前にそこまで辿り着く力が無かった。

特効薬などなかった。

薬は医師の言うとおりすぐには効かなかった。
薬を飲めば今効くか、もう楽になれるか、どうだ、まだか、どうして効かない?
薬も駄目か??
畳み掛ける自分がいた。目の前が暗くなる。
囚われてしまった心はほぐすことができない。

自分の心なのに、自分の体なのに!!

きっかけになった原因は、わかっていた。 そこがそのままだもの。
それは手付かずどころか状況は益々悪化していた。

頼りのひとが、人たちが頼れないどころか、彼らがわたしを追い詰める。責める。原因がそこだもの。

薬が増えた。
増えていくのが怖かった。

薬が効き始めたのは、通院するようになって半月ほど経ってからである。
そのせいもあるだろうが、今度はいくらでも寝られるようになった。
食事の支度と通院、洗濯掃除も最低限だけやり、風呂以外は寝ていた。

わたしが当時出来なくて困ったことは、車の運転だった。

ひとが、人ごみが怖かった。
アクセルを踏み込んで、突っ込みそうな自分が怖い。
そうなった後が怖い。
悪いことばかり考えた。
でも、それを気付かれたくなかった。

わたしは元気な時のわたしのふりをしていなければ。
気づかれて心配されるのも、励まされるのも重荷でしかなかった。

ひとが怖いのは、ひとによって大きなストレスを感じていたからだ。
もう過ぎたことなのでわざわざ書くことは控えるが、ひと(前夫とその親たち)、彼らによる金の無心、暴力。

これが全てだった。

後になって、当時のことをちらっと話すと友人に言われた。

「もっと強い心を持てばよかったのに」

それは、強いものが弱りきった弱いものに言うべきことではない。

かろうじて自分を保てたのは、死にたいという欲求を否定し続けていたからに他ならない。
わたしが今死んだら、泣く人がいる。
必ず泣き、わたしの死で人生を狂わせる・・・。

わたしには守るべきものがいた。子供たちがいた。大好きな大切な子供たちがいつもそばにいた。

冬が過ぎるころ、少しずつ少しずつ調子が上向いた。

当時まだ抗鬱薬は飲んでいたが、一旦辞めた会社からありがたいことに
「そろそろまた来ていただけませんか」
と声をかけていただき、社会復帰を果たしていた。

 
鬱が小康状態を保ち続けた1年後、今度は癌になった。
なのに次から次からなんで・・・。
 
わたしが何をしたのか。
でも、じたばたしても仕方がない。
その時は、自分が今罹っている病気のこと、
症状、診断、経過、手術のこと、予後、ありとあらゆる事を調べつくした。

この身に何が起きているか、知って闘わねばならない。
 

鬱状態を抑え込んでいた時なので、闘う気がむくむくと起きた。
早期発見と手術で、やっつけた。
5時間に及ぶ手術の後も、生理はいつものよう来た。

わたしの体は、わたしの意志とは別の所でも、治そうとする方向に向かっていくのを実感した。それは不思議な感動だった。自分の体が愛おしかった。

ゆっくりゆっくり癒えていった。
薬に頼りたくはなくとも、薬のおかげで落ち着いた。
が、そもそもの原因はそのままで、良くなるどころか悪化した。

頼るべきひとが頼れない致命的な日々。
自分の心ひとつといっても、どんな強いひとでも、見えない傷がついている。

鈍感になれたらどんなに楽だろう。
でも、それでは片付かない。。
ならば切るしかない。
自分の血を相手の血をどれだけ流そうと、
悪縁は絶たねばならない。

わたしは心の中で、原因となるものを切った。
表面上はまだまだ・・・でも、2度とこんな思いはしたくない。
切るしかなかった。

持ち続けている荷物が増えると、やがて手からこぼれてしまう。
拾おうと屈んだとたん、背中の荷物が逆さに落ちる。

小さい子供がお辞儀をしたときに、ランドセルの重さに振られてしまうようなそれは、滑稽な様だった。

疲れた心と体には、決して消えることがない刻印を残したままでも、やがて確かにわたしは抗鬱剤を飲まなくなった。副作用として全身に発疹が現れたのも原因の一つだが、必要がなくなった。

心身の不調はそれは確かに感じることもある。
しかし、あのときのような激しいものではない。
 
手を合わせたくなる、救われる出来事もあった。 
ひとによって傷つけられるが、ひとによって癒される。

もたれかかっても相手が避ければ、ぱったり倒れる。相手がぐいぐい寄ってくれば、こちらは、自分が倒れたくないから踏ん張ってしまう。
それが自身を疲弊させる。

巻き込む方は決して責任を取らないのだ。

自分を支えるのは、自分でしかないし、倒れたら倒れたで仕方がない、まして巻き込まれてなんて、そんなつまらないことはないのだと今だからわかる。

わかってよかったとも、思う。

最近、
「鬱」
と名乗る人がいろいろ騒ぎを起こしているのをよく目にする。

繋がりというのは、せかせかとしたキャッチボールじゃないといけないのだろうか。ひと時の満足感など、次の欲がもたげていつまでも満たされない渇きを残すだけだ。

それは
「個人の事情」
によるわがままであり、人に対して何かが欠けている。鬱病ていうことにしているだけで、厄介な性格だと思う。そもそも鬱病は、第三者を攻撃する力も奪うのだ。本当の鬱は

「人ともこの世とも繋がっていられなくなる」


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